夏夜の鬼 第二章「朏 千里馬」 6 「ああ、ちょっと待っててくれるかな」  赤鬼の肩に乗り、びゅんびゅんと飛ばしていく三鬼を追い、ボロアパートの玄関前まで到着したあと。三鬼に止められ、三分程待たされることになった。いや、何をしているんだろうなんて、考えるだけでもおこがましいというか、うん。  扉の向こうは、当たり前だが何も変わらなかった。見た目より数段見栄えの良い通路と、その向こうに広がる不思議空間。何も入ってない黒い箱の中。唯一家具と呼べる黒いソファに三鬼が腰を掛ける。赤鬼はというと、無言のまま三鬼の、向かって右側に回り、こちらを睨み付けるような形で立っている。……問題ない、初見の時が信じられないくらい、今は平然とアレに視線を合わせることが出来る。 「それで、君は何を聞きたいのかな」  無駄話もなく、すぐさま三鬼が問い掛けてくる。表情は相変わらずの笑顔。だが真っ直ぐこちらに伸びた瞳はどこか、探りを入れるような慎重さを感じさせた。  ……さて、どうしたものか。  本音を言うなら、さっさと本題に入りたい。――例の自殺事件(・・・・)。その原因は間違いなく擬獣であり、三鬼もそのことには気付いているはず。三鬼だってこの事件をこのまま放っておく気はないだろうから、それなりに俺の知らない情報を持っているはずだ。どうにかそれを聞き出して、少しでも早く原因を断ちたい。この手で、厄介極まる擬獣を退治してやりたい。  だが、それは出来ない。この件――擬獣の関わる事件に対し、俺は積極的であってはならない。積極的に関わろうとしているなんて三鬼に勘付かれてはいけない。それでは、折角近づいたゴールが一気に見えなくなってしまう。 「今日の昼休みの話だけど。三鬼さん、目崎の姉貴と知り合いなのか? ……あ、目崎ってほら、俺の右隣の席に座ってた奴」  合点がいかないようだったので補足すると、三鬼は「ああ」と納得してくれた。 「なんだ、彼の話か。意外だよ。君ならもっと、別のことを聞いてくると思っていたのだけれど」  だから。例えばここで、あの擬獣の話を持ち出していたら。それだけで俺は三鬼の信用を失うことになっていた。堂々と忠告を無視すれば、それは印象も悪くなるというものだ。  ……待て、『別のこと』ってなんだ? もしそれが擬獣のことだとしたら、三鬼は俺が擬獣に感心を持っているものだと思っていた……? いや、疑われてるくらいなら問題はない。これから幾らでも修正は可能な筈だ。 「結論から言えば、知り合いでも何でもないんだが。その話を持ってくるということは、彼女の話はもう知っている訳だね。彼――目崎君に直接聞いたのかい? ……ふうん、成る程ね」  何が愉快なのか、三鬼は口に手を当て、楽しそうに笑った。 「君が聞きたいのは、どうして私がその話を知っていたか、ということでいいかな。それはまあ、不思議だろうね。こんな話、どれだけ親しい知人にだって言い触らしたりはしないから。でもね、誰にも秘密にしておくっていうのは無理な話なんだよ。救急車が来れば“何故来たのか”が話題に挙がり、僅かな目撃情報から“飛び降り自殺があった”という事実が持ち上がってくる。まあ実際には、その時の噂はそこまでで、誰が飛び降りたのか、そもそも飛び降りなんて本当にあったのか――という具合に迷走して、最後は自然消滅したんだけど。でも病院内まで含めるとそうはいかない。大騒ぎになっただろうし、“昨夜運ばれてきたあの患者は自宅の二階から庭に落下したらしい”という話を聞けば、自殺を連想してしまうのもおかしな話じゃない。患者のプライバシー? ああ、勿論考慮されただろうさ。だが、噂においては隠されているものだからこそいいネタになる。噂に過ぎないから簡単に塗りつぶせるし、本人らに実害を及ばないようにするのはそう難しくないが、事実が事実と認識されないまま流出してしまうことはどうしても防げない。……私はただ、そういった根も葉もない噂を収集し、事実かどうかを吟味しただけだ」  あっさりと、難しいことを口にしてくれる。根も葉もない噂って言うのは、根拠もなければ情報源も定まらないようなもののことだろ。それを、事実かどうか吟味する? 一体どうやってだ。そんなことが可能なのか? ……いや、或いは可能なのかも知れない。それこそ根拠はないが、目の前の自信に満ちた三鬼の笑みはまるで、自らに不可能などないと語っているかのようで。 「ふん、腑に落ちないという顔をしているよ。別にいいじゃないか、手段がどうかなんて。君には何ら関わりのないことだ。重要なのは、私の言葉が事実だったという一点、ただそれだけのこと。違うかな?」  それは、そうだ。本来ならば知り得ない情報を入手する手立てがある。それはある意味、何よりも重要なファクターではないだろうか。他人に知られたくないことの一つや二つは誰でも持っている。それを知ることが出来たなら、その相手との対話が非常にやりやすくなる。相手の“弱点”とも言うべき情報を知ること。それは、相手を陥れることも出来るだろうし、逆に相手を助けることも出来る。武器を持った戦いが古いというなら、今制すべきは情報戦だ。俺達は、より多く情報を集めた者こそが成功出来る、そういう社会に生きている。勿論、幾ら情報を持っていても有効に活用出来ないのなら無駄だが、もしそれが出来るのならば、これ程役に立つものはない。  三鬼が、それが出来る人間だとするなら。確かにそう、俺が見るべきはそこであって、だから俺は、 「――――」  ……嫌なことに、気が付いてしまった。 「さて、折角だからもう少し話をさせてくれよ。ねえ君、もし誰かが自殺した時、一番悪いのは誰だと思う」 「え、――ああ」  意識が遠退くような錯覚から救われる。蘇った悪夢は、未だに居座り続けてはいるが。 「誰、だろうな。そういうのって場合に因るんじゃないか? 自殺の動機って色々あるんだし」  考え無しに口が動く。そうして出た答えは、我ながらなんとも当たり障りのない、詰まらない回答だった。 「答えられない、か。ああ、それが正解(・・)だ。聞いておいて何だが、この手の話は本当に難しい。自殺というのは、その行為自体はよく知られているのに、それを行う人間の心理というものが面白いくらい理解されていない。当たり前だ。常に自らを生かそうとするまともな“生き物”に、その全否定である自殺なんて概念を理解できる訳がない。一体誰が悪いのか。誰に責任があるのか。自殺に追い込んだ環境か、それとも自殺をした人間か、はたまた自殺するような人間を育てた親か。ただの他人、概要を知った程度の第三者がそれを判断するのは、とても難しい――否、絶対に不可能なことだから」  理解出来ないのならば、善悪の判断すらしてはならないのだと。断固として言い切る三鬼。その姿はあまりにも凛々しく、そしてその言葉はあまりに、 「――自殺した人間を、育てた親?」  あまり聞き慣れないものだったから。つい口を出してしまった。 「意外かい?」 「そりゃあ。自殺させた奴が悪い、いや自殺した奴だって悪い、って言い合いは聞いたことあるけど。……育てた親が悪いって、そんな風に言われたりもするのか?」  育てた親が悪かった。育った環境が悪かった、と言い換えてもいいか。何だよそれ、自殺者を擁護しすぎだ。いや、ある意味追い詰めてるのか? 育て方間違ってましたなんて致命傷、誰だって死にたくもなるだろう。  ……ああ、違うな。前言撤回。まったく吐き気がする。他の場合はどうだか知らないが、親に育て方間違えられたから死んだ奴なんて、どこに出しても恥ずかしくない弱者の象徴、本当にただの馬鹿者だ。冗談じゃない。判断難しいんだろうけど、本当に育て方を間違えられたのだとしたら、復讐先はこれ以上ないくらい明確じゃないか。敵前逃亡もそこまで無様だと笑いは取れない。本当に申し訳ないんだが、そんな状態で自殺を選ぶような奴相手じゃ、俺は同情どころか、憎悪しか覚えない。 「まあ、当事者になってみなくては分からないのかも知れないね。自殺者そのものへの理解がない以上、第三者からの評価は大抵、自殺した側に対してが一番辛(から)い。不理解とはそのまま恐怖に直結するもの。恐怖を覚えた対象が、実害のあるものならばひたすら遠ざけようとするし、そうでないのなら徹底的に蔑み通す。それが常だから。  ああ、全く以て嘆かわしい。世界は、さも当たり前のように不平等を成り立たせる」  ――ふと。それまで笑みを浮かべ続けていた三鬼の様子が一変した。 「……どうしてだ。何故こんなにも理不尽極まる。世界がまだ自らの子らを愛しているというのならば、こんなにも悲しい悪夢を現実にはしなかったろうに」  形の良い眉を寄せ、悲痛に満ちた声で三鬼は言った。その、あまりに似つかわしくない、深い影の差す、今にも泣いてしまいそうな悲しみの表情は。……ああ、やめてくれ。そんな顔を見せられたら、こっちが先に泣いてしまう。痛みのあまり、胸が張り裂けてしまいそうだ。 「……三鬼、さん?」  三鬼は俯いたまま緩くかぶりを振り、「済まない」とだけ呟いて、顔を上げた。そこにはもう悲しみの色はなく、安心を生む笑顔だけがあった。 「……なあ、俺からも一ついいか」  気が緩んだ所為だろうか、こちらも饒舌になる気配。三鬼は嫌な顔一つせず、俺の質問を許可してくれる。 「三鬼さんは、どうなんだ。自殺は一体、誰が悪い。『答えられない』が正解だとは言ったけど、でも……ほら、自殺はやっぱり、やっちゃいけないことだろ? どんな理由であってもさ、やっちゃいけないことをするのは、悪いことなんじゃないか?」  善悪ではなく、勿論宗教なんかの話でもなく、これは道徳の話だ。場合によっては自殺してもいいよ、なんて誰も言わないだろう。“自殺はいけないこと”。俺達はそうやって教えられてきたし、きっとこれからもそうあるべきことの筈だ。そういう観点で言えば、やはり自殺は、自殺した人間が悪いということになるのではないか。実際はどうだとか、社会的責任がどうだとか、そんなのは関係なく、そうあるべきだという常識。復讐であっても人を殺してはならない。どうしようもない極悪人であっても殺せば罪である。そんな道徳があるからこそこの社会は、歪に正しく回り続ける。  ……なんて、建前は何でもいい。俺はただ、彼女に同意して貰いたいと思っただけなんだ。 「君、自殺したいと思ったこと、ないだろう」  だから。その淡い期待は、完膚無きまでに粉々にされることになる。 「ああ、深く考えないでくれよ。私だって自分を殺そうなんて考えたことはないんだ。身内の人間曰く、自殺しても可笑しくない状態にはあったらしいけれど、まあ関係のない話だね」  ……やはり、三鬼にも何か、特別な過去があるのだろう。それが、あの白い髪や、赤い鬼に関わることなのかは――今の俺には、知る由もないことだが。 「けれど。いや、だからこそ。私は時々、恐ろしくなるんだ」  目を閉じ、そう言う三鬼に、嘘はない。そうしてまた、深い深い黒が光を受ける。 「生きていれば人間は、実に多くの出来事を経験する。時に、死んでしまった方が楽かも知れないと思ってしまう程、辛い気持ちになることもあるだろう。だが死なない。大抵の人間は、実際に自分を殺してしまうことなどない。死にたい、けれど生きていたい。矛盾しているようではあるが、それが正常なバランスなんだ。  この世界にいる全ての生き物はね、生への活力と死への活力を併せ持っている。有名な精神学者が提唱した“生の本能(エロス)と死の本能(タナトス)”を知っているなら、それに似た考えだと認識してくれていい。生と死。それら相反する対象へ向かう活力は、互いを否定し合う存在でありながら、決して片方のみが欠けることのない、表裏一体の存在でもある。それらのバランスは心理状態に大きく作用する――即ち、決して一定ではないものの、通常は、死への活力が生への活力に隠れる形で存在する。つまり死への活力が、生への活力を上回ることはない。それが、この世界に生まれ生きる、生き物としての正しいカタチなんだ。  だが、人は自分を殺せる。自ら死を望み、自らの生を否定出来る。生への活力――生きたいという願望が勝る限り絶対に有り得ない自殺を、人間は為し得てしまうんだ。死への活力が生への活力を上回った結果、それが自殺だと言うのに。  ……私は恐ろしい。自殺など考えたこともなく、想像出来た試しすらないからこそ恐ろしい。私は、生き物として存在するために定められた正常なカタチを覆してしまう程、強烈な感情を持ったことはない。そんなにも辛い経験を、私はしたことがないんだ。自殺した者は、ではそんな経験をしたというのか。生物の真理をねじ曲げてしまえる程の強い悲しみを、痛みを、絶望を、――その身で受けたというのか」  信じられない、と感慨深く彼女は語る。そして一区切り置いてから、彼女はまた言葉を紡ぎ出す。 「君の質問への答えは、先程君に言った『正解』と同じだよ。私は、彼等を――自殺した者達を、悪いだなどとはどうあっても言えない。言ってしまっては、あまりに彼等が救われない。どんな形式であろうと、その結論に変わりはない」  俺の望んだ言葉とは正反対を貫く意思に、俺は正味、威圧されていた。いや、彼女が話す時は少なからず気圧されてる感じがしていたが、今回は特別強力だった。  そうだ。俺は、俺達は、自殺という出来事を、どこか別の世界の話のように考えている。身近な人間が自殺したとしても、きっとそれは変わらないだろう。だって、分からないから。自殺する人間の気持ちなんて、自殺した人間にしか分かる訳がないのだから。  だが三鬼は違った。自殺者の気持ちが分からないのは同じなのに、そこで思考を停止しなかったんだ。彼女は死を、自殺を、本当に我が事のように捉えている。『恐怖を覚えた対象が、実害のあるものならばひたすら遠ざけようとするし、そうでないのなら徹底的に蔑み通す』。三鬼の言葉を借りるのならば、俺は明らかに後者で、三鬼はどちらかと言えば前者――自殺を実害のあること、“自らに起こり得ること”として考えている。……この二つは、対等のようでいて、まるで別次元の意見だ。自分に関わりの無い出来事を、自分のことのように考える。誰かの受けた傷を、疑似的にではあるが自分の身体に刻み、そうまでして、その痛みを知ろうとしている。それが一体どれくらい難しいことなのか、俺には皆目見当も付かない。そうあろうと心掛けることは出来ても、それ以上のことは誰にも出来ないのに。どんなに強い関係で結ばれようが他人は他人でしかない人間に、そんなことは不可能な筈なのに。 「――はは」  知らず笑いが零れる。目の前に鏡があったなら、見知らぬ男の顔が映り込んでいるに違いない。  有り得ない。なんだこの人は。こんなに近くにいるのに、まるで何百キロも遠くにいるように霞んで見える。現実感がなくなるレベルなんて想定の遙か外。こんな人、今まで生きてきて一度だって出会ったことがない。外見もそうだけど、これは純粋に中身の話だ。彼女は誰よりも強い。心から怖いと怯えながら、それでも揺らぐことなく真理を追い求めることが出来る。こんなにも孤高で、こんなにも綺麗で、こんなにも強い芯を持った人間を、俺は知らない。これから俺が何十年生きようと、いや、何千何万回生まれ変わろうと、こんな出会いは二度とない――! 「……悪い、三鬼さん。じゃあ俺、帰るわ」  必死で言葉を吐き出してから、逃げるように踵を返す。いけない、この状態は駄目だ。とんでもないオーバースピード。このままコーナーに入ったら、クラッシュは当然として確実に命を落とす。結局本題――擬獣については全然触れられなかったが、今日はもう諦めるより他ないだろう。 「そうか。なら、これを持っていくといい」  声に反応して振り向くと、何か茶色い物が飛んでいた。反射的にそれを受け取ってから、三鬼が封筒をこちらに投げて寄越したのだと認識する。封筒は、大きさとか重さとか厚さとか、色々と覚えのある物だった。だから、中身も―― 「――三鬼さん、これ」 「擬獣を倒した報酬だ。私にしたら予定外ではあったが、君にしたらそれくらいでなければ割に合わないだろう? あとはまあ、私の話に付き合わせてしまったから、その礼の意味も含めてね」  言葉を失い、三鬼と封筒の中身を交互に見る。……そうだ、金は幾らあっても足りない。今の俺には、いや誰にしてもそうだろうが、喉から手が出る程欲しい物の一つだ。けど、こんなに簡単に貰っていいのか? さっきまでだって、もっと三鬼に信頼して貰って、擬獣退治を認めて貰って、報酬ならそれから貰えればいいと考えていたのに。 「それから、二度目になるが忠告だ。君は擬獣に関わってはいけない。いいかい? 報酬とは対価。君が背負った“危険”に対する精算だ。心しておきなさい。君が擬獣と接触するたび、君の寿命は確実に縮まっているのだから」  たがが外れそうになる。あまりの喜びに容量の限界を迎えそうだ。でも、しっかり抑えておかないと、いや、だけどこれくらいは、言っても構わないのではないか。 「あのさ、三鬼さん」 「うん、なんだい」  魅力的すぎる、極上の笑顔。直視出来ず、不甲斐なく目を反らしながら話す。 「明日、また来てもいいか。どうしても、言っておきたいことがあって」  三鬼はもう知っているのかも知れないが。これだけは、自分の口から伝えておきたいと、そう思ったから。 「ああ、構わない。面白い話が出来るのなら、誰であれ大歓迎だ」  その返事に、またしても心が躍る。顔がにやけてしまいそうになるのを、血が出るくらい唇を噛み締めて我慢する。憧れの異性に告白して成功した時って、もしかしてこういう気持ちになるのだろうか。 「ありがとう。じゃあ、明日」 「律儀だね。ああ、また明日」  早足に出口へ向かう。早く明日が来ることを、一心に願いながら。