夏夜の鬼 第二章「朏 千里馬」 4  ――グチャリと。肉の潰れる音がした。                                         前 「やあ、朏 千里馬君。そうか、君もこのクラスなんだね」  その台詞を合図に、慎太の飲んでいた牛乳が俺の顔面に直撃した。 「……おい、な――」  何してくれる、と言いたかったのだが。目の前の猿は驚きのあまり椅子ごと後ろにひっくり返り、一つ前の机に後頭部を直撃させ、そのまま盛大に床へダイブした。とんでもない音が教室中に響き渡り、周囲の生徒は完全にこちらを注視している。……というか、慎太がすっ転ぶ直前――つまり、この白髪の女生徒、三鬼 弥生が教室に入ってきた時点で、既にみんなの視線は一点に集中していたのであり。気付いていなかったのは、俺の前の席に座ってこちらに身体を向けていた、相河 慎太ただ一人だった。 「有り得ない」  尤もな台詞を零したのは右隣の席の生徒、目崎(めざき) 陸(りく)という痩身長躯の男子である。隣席したのも縁だからと昼食を共にしていただけなので、黒縁眼鏡を掛けた見た目勉強の出来そうな奴、というくらいしか知らないが。その反応からして、三鬼についての情報はある程度知り得ているようである。……なんてことを、顔に吹きかけられた牛乳をハンカチで拭き取りつつ、ぼんやりと考えていた訳だが。慎太程ではないにせよ、俺だって充分に驚いている。それは、慎太のアホな挙動にでも、三鬼がこの教室に来たことにでもなく……。 「大丈夫かい、君。打ち所が悪いと洒落にならないからね、頭は」  三鬼は慎太を目を細めて見下ろし、至極落ち着いた声色でそう言った。正直、この時点で慎太の安否を気遣っていたのは三鬼だけだったのだろうが、その甲斐あってか、慎太はすぐに復活した。 「いえ! 何も大丈夫です! 問題なくてありがとうございます!」  すっくと立ち上がり、意味不明な言葉を発したかと思えば、身を乗り出して俺に顔を近付け、 「……なんで、三鬼さんが、お前の名前を、知ってるんだ?」  これまた尤もな台詞を呻いた。  そう、その辺なのである。慎太が言っているのは、三鬼 弥生が朏 千里馬の名前を何故知っているのか、ということだが、俺は少し違う。即ち、三鬼 弥生が、何故朏 千里馬の名前を呼んだか、ということである。全く以て信じがたい。彼女が俺の名前を知った経緯を正直に説明すれば、必然的に昨夜のことを話さなくてはならない。しかしあれは、絶対に秘密にしておくべきことのはず。昨日の夜、就寝前の考察からして、それは間違いのないことなのに。  偶然出会って話したとでも騙るつもりか? だとしたら三鬼は自分の立場をまるで分かっていない。そんな偶然、今の奴ら(・・)にはどう考えても通用しない。 「何故って君。局地的ではあるが、彼は有名人じゃないか。名前くらい知っていても可笑しい話じゃないだろう」  部屋中に溢れる疑問符。静まり返り、響きの良い三鬼の声だけが聞こえる中、苦笑して三鬼は続ける。 「と、そういえばもう三年も前の話になるんだね。成る程、それでは驚かれるのも無理はないか。朏 千里馬と言えば、全国中学校剣道大会、県大会個人戦において、一年生にして優勝を果たした人物の名前なんだよ」 「…………」  辺りがざわつく。ああそういうことか、と俺自身で一つ納得しつつ――そういえば昨夜、俺は一度も自分が“朏 千里馬である”と名乗ったことはなかった――、それでも何か黒いモノが付きまとう感覚があって、それが異常に気持ち悪い。堪えたが、一瞬涙すら流れそうになった。 「すげぇ。そんな話まだ忘れてない人がいるなんてさ、凄い奇跡だよな千里馬」  何がそんなに楽しいのか、見るからに興奮した風に慎太が言う。そうか、さっきネジの一本でも無くしたか。別にお前が誉められた訳じゃないんだぞ、と心の中で注意してやる。 「朏君、それって本当?」  目崎が無遠慮に聞いてくる。出来れば強引にでも誤魔化したいところだが、なんだか聞いてきているのが目崎だけではない気がしてくる不思議。  ――本当に、迷惑だ。 「嘘じゃない、けど。でも俺、もう剣道やってないから」 「なんで」  勿体ない、とこれも目崎。言ってるのが目崎だけでない気がするのも同様。こういう時友達ってのは助け船を出すべきだと思うんだが、猿はチラチラと三鬼に視線を送るのに忙しそうだ。本当にどうしてくれようかと途方に暮れかけた時、この嫌な空気を鎮めたのは、この話を振った張本人だった。 「うん、まあそれは正直どうでもいいんだ。暇だからちょっと確認に来てみただけだからね。ほら、普段と身の回りの状況が違うと、ふと不安に陥ったりするだろう? 詰まりそういうことだよ」  杞憂で済みそうだけれどね、などと言いつつ、彼女は目崎と俺の後ろを周り、あろうことか横隣の席に優雅に腰掛けた。背もたれに背を付けることはなく、俺の方を向く形で椅子に座り、制服のスカートで半ばまで隠れる細長い足を組み、膝の上に両手を重ねる。その動き一つ一つに一切の隙もなく、流れるような動作は艶やかで、どこか上品だった。 「これも何かの縁、だろう? 今言ったことだが暇を持て余していてね。少し話でもしようじゃないか」  俺に話し掛けているようで、その実、言葉はこの教室全てに及んでいる。なんて不可思議な光景だ。突然現れた珍客に誰しも呆気にとられている。話し声は疎か、足音も衣擦れの音すら、教室の中からも外からも聞こえない。学生の休み時間にあるまじき静けさだ。  だが拒絶はない。伝わってくるのは驚きと喜び。誰しもがこの客を歓迎していて、誰一人としてこの事態を異常だとは思わない。沈黙は、偏に彼女の邪魔をしないために――彼女の言葉を、一片も無駄にしないためだけに存在していた。 「へえ、綺麗な机だね。私の教室の物も綺麗ではあるんだが、こちらは新品のようだ。今期に新調でもされたのかな、まったく羨ましい限りだ」  小枝のような白い指が、真新しい机の上を滑る。赤黄色の木製台と鉄脚には特有の艶があり、傷や落書きなどの汚れはまったくない。昨日今日で幾つか教室は見て回ったが、確かに、一学年の机は皆下ろし立てらしかった。 「さぞ学業もはかどることだろう。ねえ、そうは思わないかい?」  思います! と猿が吠える。黙れ体育会系。 「しかし、冷たいね。冷たすぎる。誰かが使っていた感触がまるでない。教室の真ん中の席が空席、なんてことはないだろうにね」  クスリ、と三鬼は笑う。何が楽しいのかはよく分からないが、それでも彼女は事ある毎に笑顔を浮かべている。そしてその度どこからか、うっとりとした溜め息が聞こえてくるのである。 「その席の奴は、今日はまだ来てないんだ。理由は知らないけど」  答えると、三鬼はまた、満足そうに笑った。 「そう。ああやっぱり。いや可哀想に、無事に高校入学を果たしたばかりだと言うのに。理由は知らない? 大事がないことを祈ろうじゃないか。なにせ今この時、この町で、いるはずの人間がいないなんて、それだけで不吉な連想をしてしまうのだからね」  またも疑問符を浮かべ――たのは、どうやら俺くらいだったらしい。教室は僅かにざわめき、隣の慎太すらも顔をしかめている。……ざわめいているだけにしては随分うるさいな、と思ってついでに見回してみたら、教室入り口には、いつからいたのか、他クラスの生徒が押し寄せてきていた。なんだお前ら、お呼びじゃないぞ。 「おい、なんだこの反応」 「おい、なんだその反応」  慎太にまるっと返された。なんて理不尽だろう。 「今朝もニュースでやってただろ? もう十人目が出たって」 「十人目? っていうか慎太、お前ニュースなんか見る奴だったか?」 「……お前、昨夜の電話の内容とかもう覚えてないだろ。見る奴なんだよ、お前と違ってな。いや、むしろあれだ、ニュースを見るのは人として当然の事と言うか。ねえ先輩」  そうだね、とにこやかに三鬼。そして勝ち誇ったように慎太がニヤリと笑って、なんだこいつ、殴られたいのか。 「見る機会がないだけだ。でも十人目って本当に何の話だ」  十人目。不吉だなどと言われれば、自然に“被害人数”であると連想する。思い浮かぶ事件もそうはない。最近話題になったものと言えば例の首切り殺人だけど、あれの数だったらとっくに―― 「自殺だよ」  感情のない声が聞こえる。声の主は誰かと思えば、それは目崎であった。 「自殺? 自殺が、十人?」 「うん。三月からこっち、この町で出た自殺者が、今日報道された分で十人になったんだって」 「……?」  思わず言葉を詰まらせてしまった。  こんな時代だ、自殺なんて別段珍しい話じゃない。幸いと言うべきか、俺の周りに自殺した人間は今のところいないが、それでも全国的に見れば年間万単位は自殺してるんだし。自殺者が出たなんてニュースを聞いたとしても、不景気だからな、の一言で片付けてしまっていただろう。  けれど、目崎の話はそういうものじゃなかった。 「待て。この町? 夏臥美町だけで自殺者が二桁いってるのか? しかも三月って、今年のだろ? 一ヶ月しか経ってないじゃないか」 「そう。大変な話だろう」  今度は三鬼だ。彼女が口を開いたかと思えば、ざわついていた教室はさっと静かになる。なんて統率の取れた学校なのだろう。 「この国の年間自殺者はだいたい三万人強。だから一ヶ月間の平均は三千人弱というところかな。それを都道府県数、市町村数で割ってみる。どれだけ単純に考えても、一つの町に一ヶ月で十人は多すぎる。少し前には、インターネット上で知り合った複数人が一カ所で集団自殺した、なんてニュースもよくあったけれど、これはまた別の話だ。一人か二人、多ければ三人が、一晩の内に自害。これが数回繰り返された。当然場所もバラバラだったし、示し合わせたような様子も見つかっていない。一度に何人死のうが、短期間で多数死のうが、あくまで単独自殺であると結論付けられた訳だね。  しかも、遺族は口を揃えてこう言ったそうだ。『自殺したなんて、今でも信じられない』と。自殺者の共通点どころか、それぞれの自殺の原因すらほとんど分かっていないんだ。経済、勤務、家庭、学校、男女などの問題や、病苦、精神障害といったそれらしい(・・・・・)動機とは縁遠い、どちらかと言えば活力の溢れる人間ばかりが、自ら命を絶っていった。一体、どうしてしまったというのだろうね」  悲しそうな声色で言う彼女は、それでも笑顔を崩さなかった。事件そのものは悲しい話だけれど、それを話すこと自体はとても楽しいと、そんな感じだった。不謹慎だとは、別に思わない。彼女が楽しそうであるのなら、それを見ている側もまた、何となく楽しい気がしてきたからだ。  だがその傍らで、こんな見解もあった。或いは、そんな余裕すら持てる彼女は、警察すら知り得ない真相を、知っているのではないか……? 「さて、少し長居しすぎてしまったかな」  誰もが神妙な面持ちでいる中、急にそう言って三鬼は席を立った。 「ふん、こうやって話すのも悪くはないが、もう少し場を整えたいところだね。本当は時間ももっと欲しいんだが、まあ仕方ないかな」  それじゃあね、と三鬼は歩き出す。また俺の席の後ろを通って、……目崎の隣まで来て止まった。目崎の肩に手をやり、顔色を窺うように身をかがめ、 「具合が悪いなら保健室へ行くといい。場所が分からなければ案内するよ」 「……いえ」  力無く首を振る目崎は俯き気味で、確かに調子が悪いようにも見えた。それはまあ、あんな話をした後だから、気分が悪くなる奴がいても可笑しくはないんだろうが。 「そうか。だがね、心の傷は身体のそれとは違って目に見えにくいから。大事にしなくてはいけないよ。……特に、君はね」  最後に意味深な言葉を、またも笑顔のまま呟いて、三鬼は俺達の教室を去っていった。                                         後 「おい目崎」  ホームルームが終わってすぐ。俺は、足早に一人で帰ろうとする目崎 陸を追った。一緒に帰る約束などしていないから仕方のないことではあるが、昇降口まで捕まらないとは思わなかった。教室から出たところを追ったらもう廊下にすら姿がないなんて、競歩の選手とかだったりするのだろうかコイツは。  名前を呼ばれて振り返った目崎は、キョトンとした顔をしていた。……こうして見ると電柱みたいな奴だ。俺より少し高い程度の背丈だが、横幅がないだけで見た目が全然違ってくるものらしい。 「あれ、朏君。何か用?」  何か用かと問われて、一瞬固まってしまった。追うことばかりに気を取られて、追った目的の方を見失っていたらしい。 「いや、一緒に帰ろうかと思ってさ。お前、電車か?」  取り繕うように言う。言ってから一歩遅れて、それで正解だったなと安堵した。 「うん、電車で駅四つ向こう。朏君は地元じゃなかったっけ」 「駅経由でも行ける。上り道が結構辛いけどな、時間的にはそんなに変わらないんだよ」  方便である。駅の周りは割と入り組んでいて、直線距離だけで時間を予測すると痛い目を見る。更に、これは経験しないと分からないが、なだらかな上り坂も長時間続くとかなりの負担になる。夏臥美町の円錐地形には慣れたものだが、学校と家の位置関係もあり、やはり外縁を回った方が楽なのである。 「いいよ。でも委員長――相河君は?」 「アレは部活――もあるけど、今は掃除当番だからな。出席番号が一番だから自動的にアタマっから」  そう言えば、と目崎は控えめに笑う。昼休み以降、やはり目崎は不調そうだったが、保健室に行くようなことはなかった。元々物静かなタチらしかったのでどうも判別しづらいのだが、取り敢えず今は問題ないようだ。  俺達の出だしが早かったためか、辺りの生徒の姿は疎らである。別に人混みが嫌いなんてことはないが、道を塞がれたり間近で大声を上げられたりするのはいい気分ではない。だからこうして早く出るのも悪くはないなと思ってくる。まあ、僅かながら早く家に帰ることになるのは少し気が滅入るが、それならそれで寄り道でもすればいいのだ。時間にゆとりを持つのが有意義でないことはない。大なり小なりイベント事にはそれ相応の準備が必須であり、ならば今日もまた、こうやって時間と精神に余裕を持てるのは、ラッキーだったと言っても間違いではないだろう。 「昼休みの話なんだけどさ」  並んで歩きながら切り出した。下らない世間話もいいが、まずはそこである。ちょっと余裕を作ったからと言ってのんびりしている気にはならない。不自然にならないよう心掛けながら、目崎を追った目的を果たしに掛かる。 「なに、目崎って三鬼……先輩とさ、知り合いなのか?」  俺の問い掛けに、目崎は首を傾げて返した。 「ううん、普通に初対面だったけど……いや、一回好奇心であの人の教室覗きに行ったりしたから、ひょっとしたら顔ぐらいは覚えられてるかも」  それはないな、という言葉が、三鬼の教室に行った時の光景と共に浮かんできた。今日の昼休みも似たようなものだったが、授業中にでも行かない限り、三鬼の教室周りはいつも異常に混み合っている。俺達のクラスからは距離があるから、教室にいる分には知り得ないが、一度行けばその状態くらい見て取れる。都会の満員電車一歩手前とも言えそうなあの状況で、三鬼が見知らぬ誰かの顔を覚えるなんて、よっぽど外見に特徴でもない限り無理な話だろう。そういう意味で目崎はあまりに平凡であり、そして最も特徴ある外見の持ち主としては、誰よりも三鬼本人が適当なのである。  しかし、詰まりはその程度だ。目崎と三鬼は知り合いじゃない。だったら三鬼の、最後の言葉は何だったのだろう。 「――ああ、もしかしてあの人が最後に言ったこと?」  聞かずとも察したか、目崎は先んじて口を開いた。 「不思議な人だよね、あの人。完全に他人で、しかもこっちは新入生、向こうは転入生。噂も何も知る訳ないのに、まるで何もかもお見通しみたいに言ったんだ。当てずっぽう、じゃないよね。そんな風には聞こえなかった」 「……あの先輩が不思議なキャラしてるのは否定しないけど。今のお前も結構当て嵌まる気がするぞ。出来れば分かり易く説明してくれると有り難いんだが」 「あ、ごめん。まあその、特別面白い話じゃないんだけど」  言ってから、目崎は空を仰ぎ見る。釣られて俺も見上げると、空は大部分が雲で覆われていた。この雲の進行がもう少しでも速かったなら、昨日の月蝕を見ることは出来なかったかも知れない。 「あのね、前に、うちの姉貴が自殺未遂起こしてね――って、大丈夫?」  すっ転びかけた。何に脚を引っかけた訳でもないんだが、人が上向いてる時にそういう不意打ちはどうかと思う。 「いや大丈夫、ちょっと躓いただけだ。それで?」 「ああ、うん。二年前の話でね。僕より四つ上の姉貴が大学受験の年に、なんというか、色々あったみたいで、こう、マンションの屋上から」 「落ちた……」  まったく、嫌な話である。この町はどれだけ自殺に縁があるというんだ。しかし道理である。そういう身の上であんな話が持ち上がれば、それは気分も悪くなるだろう。 「あ、未遂だよ? 例の話とは無関係。大怪我はしたけどちゃんと生きてるし、その後は割と安定してて。こないだなんて彼氏が出来たとかで大はしゃぎしてたり、あとで心配した親父の小言から大喧嘩に発展したり」 「…………」  思ったよりは平和的な話だったか。どうしてこういう、思い違いというか、早とちりみたいなことをしてしまうのだろう。 「そんな感じで。多分、先輩は姉さんのことを、どうやってかは分からないけど、知ってたんじゃないかなって。それで、気遣ってくれたんじゃないかって、そう思うんだよ。あの話題が持ち上がった時、丁度そのこと考えてたからさ、なんとなく関連づけちゃっただけなのかも知れないけど」 「ああ、なんか暗い顔してたよな、お前。そのことを考えてたって、その、自殺未遂があった時のことを思い出してた、ってことか?」 「うん、まあ。……姉貴、受験勉強やら何やらで大分切羽詰まってるなとは思ってたけど、まさか飛び降りるくらいに追い込まれてたなんて思いもしなくて。なんか、悔しかったんだ。喧嘩もよくしたけど、それでも家族で姉さんで、嫌ってた訳じゃなくて。ずっと一緒に暮らしてたのに、なんで気付けなかったのかな、って」  少しだけ声の調子を落として言う目崎に、俺は「ふうん」と、意味のない返事しか出来なかった。家族とか兄弟とか、俺にはまるで興味の向かない分野だ。  けれど知りたかった情報は得た。三鬼のあの台詞、最初は目崎自身のことを言ってるんだと思ってたけど、本当は目崎の姉貴の話をしていたのか。心の傷は見えにくいから、注意して見ていないと大変なことになるぞと、そういう忠告だったのだろう。  まあ、何故三鬼がそんなことを口に出来たのかは、多分本人にしか分からないことなんだろうけど。 「でも、別にお前がどうこう思うことじゃないだろ。お前の姉貴が死のうとした原因は知らないけど、お前に直接関係してはないんだろ? いくら家族だからって、お前が気に病むことじゃない」 「……はは、そうだよね」  目崎は渇いた笑いを零して言った。 「でも、今こうやって自殺が相次いだりしてるとさ、思うんだよ。遺された人はきっと、すごい後悔してるんだろうなって。自分が何か行動を起こせば、もしかしたら救えたかも知れない。ちゃんと分かってあげていれば、死ななくて済んだかも知れない。根拠なんてないけど、それでも思わずにはいられないんだよ」 「……そういうものかね」 「そういうものじゃないかな」  自殺する奴の気持ちなんか知ったこっちゃないが、実は、そういう意味分かんないくらい複雑な対人関係が煩わしくなったんじゃないだろうか。  あの時ああいしていれば、こうしていれば。そんなこと考えたって死んだ人間は生き返らない。自己満足か、或いは同情してくる周りへのポーズか、そんなものにしかならない。自殺する人間がそんなものを望むだろうか。もう構わないでくれ、放っておいてくれ、その善意は自分を苛む悪意にしか見えないんだ、と。そういうつもりで自殺したんだ、自殺を図ったんだと言われた方が、よっぽどそれらしくて分かり易い。  原因が何であれ、生きてそこにいるのが嫌になったから、無理矢理自分を退場させる――それが自殺なんだから。  ……ああ、もしかしたら。三鬼のあの台詞は、目崎の姉の過去に対して言ったものだろう、と一度考え直したが、やっぱり目崎本人に向けて発した言葉だったのかも知れない。心の傷は見えにくい。余計なことまで気にし過ぎて、それが自身の傷を広げることになっても、そのことに気付くのは困難なのだと。だから大事にしなくてはならない、と。 「それにしても、朏君もやっぱり、三鬼先輩のことが気になるんだね」  思考を巡らせていると、目崎が、変に明るい声でそんなことを言ってきた。 「……別に、そういうつもりじゃないんだが」 「そう? 僕だったら気にするよ。いきなり名前を呼ばれたりしたら」  げ、と内心たじろぐ。目崎は嬉々として続ける。 「運動からっきしだから僕にはよく分からないけど、中学の一年で県大会に優勝って凄いよね。どうして辞めちゃったの?」  なんという無遠慮、と突っぱねてやろうかとも思ってから、逡巡。しまったな、それだと計算が合わなくなるのか。 「……あ」 「うん?」 「忘れ物した」  振り返りながら言った。学校と駅とを繋ぐ小さな団地風景と、五、六人の学生の姿が目に映る。 「忘れ物? 教科書とか、筆箱とか?」  視界の外から目崎の声。目崎も俺に続き、一歩進んだところで振り返っていたようだ。 「いや、割と大切な物を。悪い目崎、先に帰ってくれ。話の続きは明日、絶対にするからさ」  返事を待たずに駆け出す。既に下り始めていた道を戻るのは正直気が引けたが、それでも走るのは止めなかった。  百メートル以上は走っただろうか。軽く身体が暖まった辺りで速度を緩め、さっきまでと同じように歩き出す。振り返ればまだ目崎が見えるかも知れないが、流石にあっちももう俺のことなど見ていないだろう。  脇道に逸れる。二メートルほどの塀を縫って進んでいくと、また似たような開けた道に出る。ここを更に進めば、外縁――町を囲む山に沿って続く回り道に出ることが出来る。要するに、最初から予定していた俺の帰路である。 「……はあ。何やってんだろうな俺。幾ら何でもわざとらし過ぎたよなぁ」  忘れ物などないのだ。ただ単純に、目崎の質問を嫌ったから逃げたのだ。いつもなら、答えたくない、言う必要はないんだと返すものを、変に気を遣ったせいで躊躇ってしまった。 「……なんだよ。何年経ったと思ってるんだ」  あの時の経緯を説明しようとしたら逃げたくなりました。なんて女々しい行動理由。馬鹿馬鹿しい。何のために剣道を辞めて、その理由を聞いてくる馬鹿共を蹴散らして、精一杯忘れようと努力してきたんだか。  そう、あんなもの、俺には向いていなかったんだ。俺には充分な技術がなかった、それだけのことだ。だから、どんなに結果が悲惨だったとしても、そんなもの、未だに引きずっていく必要なんかない。人間誰だって失敗する。俺にとってはあの出来事も、幾つもある失敗の中の一つに過ぎないんだ。  明日には。明日には問題なく説明してやる。感慨なく言い放って、あんなことはもう気にしていないんだと証明してやる。そして今度こそ、この嫌な気持ちに決着を付けてやるんだ。  そう意気込んでから、じゃあ今日はこの後どうしようかなと方向を変えた。……別に、敢えて違うこと考えて逃げたとか、そういうんじゃないんだ。