夏夜の鬼 第二章「朏 千里馬」 3                                         前 「随分、綺麗に見えるもんだな」  夜空に浮かぶ半月。普段より少しだけ近く見えるそれが、どこまでも深い藍色を穿つ。ついさっき、独り言には気を付けようと決めたばかりであったが、これは仕方ないだろうな、と思った。それ程までに、今日の月は綺麗だと感じたのだ。  体温の低下が原因か、徐々に増してくる寒気に身を震わせつつ、ただぼんやりと空を見上げる。胡座をかいていた脚を伸ばし、上体も倒して横になる。肉体疲労と精神疲労の二重奏は流石に応える。床にしているのは誰の物かも知らない家の屋根だが、疲れたんだ、少しくらい休ませ貰っても罰は当たらないだろう。  用事は済んだ。被害が出る前に倒せて良かった。体内に蛇が巣くう、巨大な、野犬――のような何か。あんなモノを一晩でも放っておこうものなら、夏臥美町の人口が半減していただろう。警察なんかアテにならない。軍隊が動いてやっと……しかし、それには時間がかかりすぎる。  不安にならざるを得ない。世界の平穏は、こうも簡単に崩れ去る。  不意に、電話の着信音。気を緩めていた所為か、音が心臓に刺さったような錯覚を覚える。妙に大きい拍動を感じつつ、ポケットからケータイを取り出す。……電源を切っておくべきだと今更ながらに後悔した。  怖いくらいに静まり返り、間もなく日付も変わるというこの深夜に、遠慮なく鳴り響く電子音。気分的に無視したいところだが、万一重要な用件だったら困る。どんな用事にせよ一層に疲れそうだなと思いつつ、通話ボタンを押した。 『お、出た出た。あのさ千里馬――』 「おいコラ慎太。こういう時の第一声は“夜分遅くにすみません”が常識だろうが」  う、と相手は声を詰まらせている。まったく、このパターンも何度目だろうか。 『……相変わらず細かい奴。というか千里馬、なんか怒ってる? いつにも増して声荒くね?』 「いや別に。ちょっと疲れてるだけだよ。それより何の用だ」  慎太の用件は、昼間耳に胼胝ができる程聞かされた、例の転校生の話だった。いい加減にうんざりする。熱心なのはいいが、それに俺を巻き込まないで欲しい。 「分かってるよ。明日、一緒に見に行けばいいんだろ? あんまりしつこいと嫌われるぞ」 『だって千里馬、全然乗り気じゃないじゃないか。何つーか、自分が絶賛してるものを貶されるってのはさ、こう、すっきりしないんだよ。つまり眠れないんだよ眠らせろよ!』  それで夜遅くにわざわざ念押しか。なんてタチの悪い。 「別に貶してるつもりはない。お前の反応がアホみたいに過敏なだけだ。っていうかそれで眠れないって、お前どんだけ神経質な、――あ?」  普段ならまず見逃す、しかも今の話に全く関係のない、どうでもいい事柄。それに気が付いたのは、きっと、最初の印象が強かったからなのだろう。 『千里馬? どうかしたのか』 「月が」 『ツキ?』 「月が、さっきより小さくなってる」 『へえ。どれどれ』  ジャァ――と、これはカーテンを開ける音だろうか。電話の向こう側から漏れ出す情報。それは頭の隅で認識されつつも、重要性を持たず、あっという間に霧散していく。視線はただ、夜空に浮かぶ一点にのみ注がれている。  半月だったそれは、今ではその面積を著しく削られていた。中央から侵蝕する闇。光を失った半身。見慣れていた筈なのに、まるで今初めて目にしたかのよう。輝きは消え掛けている。だというのにそれは、なんて綺麗な、三日月なのだろう。 『皆既月食だな』  慎太の、信じられないくらい無感動な声が聞こえた。 『そういや今朝、ニュースでやってたよ。今夜は晴れだから、久しぶりにはっきり見えるでしょう、ってさ』 「……そうか。初めて見た気がするよ、俺」 『まぁ、月なんて俺も見ないけど。つーか見る必要がない。あんなの、あの人のことを思えば、その辺に転がってる石ころみたいなもんだぜ。千里馬もさぁ、とぉくにあるオツキサマなんか気にしてないで、身近な人間に目を向けようぜ』  石ころとは、随分な言われようである。熱心な人からすれば問題発言どころの話じゃ済まないだろうに。 「まったく。お前の気持ちが少し分かったような気がするよ、慎太。まあ、見に行くくらいはいいけどさ。もしこれでその転校生が、実は外人だとかハーフだとかクォーターでしたとか、そういう詰まらない話だったら、向こう一週間の昼飯代はお前持ちな」 『ひ、ひでぇ。いやぁ……大丈夫、だと思う、多分。そんな話、俺は聞いてないし、名前もそれっぽいのじゃなかったし……』  混血児はそれっぽい名前でなければならない、なんて決まりはない。名前が邦人だからって実際にそうである必要も勿論ない。どうもオチが見えてきた気がする。だが俺にとっては好都合だ。いいバイト見つかるまでは昼飯抜きも覚悟してたからな。あー、高校の購買部ってどんなの売ってんのかなぁ。今日は見る機会なかったもんなぁ。なんかすげぇ楽しみになってきた。 『ちょ、おい、お前今、喉鳴らさなかったか』 「気のせいだろ。と、そう言えば俺、まだその転校生の名前を知らないんだけど」 『え、あ、あれ、言ってなかったっけ』  溜め息を吐きつつ立ち上がる。一度消した得物を取り上げ、変な音を立てないように気を配りつつ、地面に降りる。もし誰かに見られたら……なんてことも思ったけれど、仕方のないことだ。コレを手にしている前後は、否応なく気分が高揚してしまう。そんな些細なこと、どうでもよくなってしまうのだから。 『まあいいや。名前だよな。その人の名前は――』  名前を、……初めてその名前を耳にして、何かが脳裏を掠めた気がした。気がしただけなのだと、心の中で言い聞かせたけれど、それでも、どうしても止められずに、自分の口からもう一度、その名前を聞く。そうして、 「おや、呼んだかな」  月が光を完全に失う頃。それを聞いていたのが、自分だけでなかったことを、俺は漸く知ることになった。                                         * 「三鬼 弥生。君はそう呼んだね」  闇を縫う光のように真っ直ぐ響く、澄みきったその声に。驚く心が、一歩も二歩も遅れて歩む。惚けた心地で通話を切り、電源も落とした。それは偏に、邪魔だと感じたからだ。 「ああ、確かにそれは私の名前だ。ふん、我ながら酷いものだ。こんな夜闇の中、初めて出会う人間にまで名を知られているなんて、不用心にも程がある」  自嘲気味に笑う、その音はまるで、強大な引力を伴っているかのよう。五感の自由が奪われる。その声に。その肌に。儚く揺れる髪に。見覚えのある制服に。そして、在るはずのない赤い色に。 「ところで、そう言う君は――朏 千里馬君、だね」  月のない夜。星すら怯え隠れた漆黒の闇を背に、彼女は俺を見下ろしていた。 「早速で悪いんだが、死んで貰えないか」  喰われた月に、自らが代わるかの如く妖艶に光る、純白の髪。芸術品のように可憐で、この世のモノとは思えない程無垢な容貌。赤の人外――酷薄の殺人鬼が眼前に迫る今も尚、俺はその一点から目を離せずにいた。  ――ああ、なんて、美しい――                                         * 「何なんだ、アレ(・・)は」  人外の怪物なら、今まで何度も目にしてきた。どんな相手でも斬り倒してきた。だけどアレは別格だ。一目見ただけで分かった。さっきの犬が、ただの人間じゃ相手にならない怪物なら、アレは、人間なんかが相手に出来きない、正真正銘の化け物だ。  暗い街路を駆け抜ける。ヒトの速度なんてとっくに超えている。他人の目なんて本当にどうでもいい。目的地なんてない。ただあの化け物から逃げる為に、遠くへ、遠くへ、遠くへ。  息が切れ、脚が重くなる。周囲を見渡しても、視界に入るのは変わり映えのしない住宅街のみ。どれだけ逃げられた? 今どこにいる? アレは今どこに? そして、あいつは今、どこに―― 「こら、逃げてくれるなよ」 「あ――」  さっきとまるで変わらない方向から、あの声が聞こえた。見上げてみれば、本当にさっきと何も変わらない、白い髪の女――三鬼 弥生がそこにいた。 「流石に速いね。でもほら、犬猫じゃないんだから。血統書付きが、雑種に負ける道理はないんだよ」  何なんだ、あの女は。アレが化け物なら、あいつは一体何なんだ。終始余裕に満ちた笑みを浮かべ、俺を見下す人間。あいつがアレを操ってるとでも言うのか? そんな馬鹿な。桁外れの化け物を、あんな女性が御しているとでも言うのか。  それより、悪いが死んでくれだと? なんでだ。あいつが本当に三鬼 弥生なら、慎太の言っていた転校生なら、俺達は本当に初対面な筈だ。今日まで一切関わりのなかった、赤の他人な筈だ。だったら―― 「ふん、解せないという顔だね。それはそうだろう。突然現れた人間の口から、死んでくれ、なんて。B級ホラーでももう少し気の利いたストーリーを語ってくれるというのに」  目が離せない。あそこにいるのは三鬼 弥生だけじゃない。その背後に潜む殺意の塊が、今にも俺に襲いかかってきそうな体勢で、俺を睨み付けている。 「だが悪いね。私は、無駄なことは嫌いなんだ。君に伝える言葉など何一つ、今の私は持ち合わせていない」  彼女の右腕が持ち上げられる。白い手が、ゆらりと空に浮かぶ。それに反応するかのように、彼女の背後に控える影が身を縮める。筋肉の収縮。直後に訪れる瞬間を迎える為の準備動作。次は逃さない――殺意に交じって流れ出るその意志は、しかし逆に、俺の決意を固める結果となる。 「行け」  引き金は言の葉。急降下する白色。そうして撃ち出された弾丸は、俯角六十度で以て一直線に襲い来る。速度からして退路はない。だが気後れもない。ならば、俺が取るべき行動はただ一つ。 「おや」  構えは上段、重心は軽く後ろ足。引いて駄目なら押してみろ。無謀なのは百も承知。それでも、大人しく殺されるよりはましだから。  ――激突。刀身と敵の腕が境界となり、全身の骨と筋に衝撃が走る。重心移動を伴った全力の一太刀は、弾丸の勢いを根こそぎ削ぎ落とし、鍔競り合いのような形へと移行させた。刀身から滴る血は、紛れもなくその剛腕から流れ出たもの。わざわざ真正面から突っ込んできたのは、俺が攻撃を避けると読んだ上で、回避直後の隙をつくためだろうか。攻撃の意志がなかった為に、折角の勢いが活かしきれていなかった。驚く程に単純すぎる。どれだけ力が強かろうと、頭がなければ俺は殺せない。 「は、見掛け倒しが――!」  勝機を見出すと共に、身体に熱が戻る。はやり立つ心。全身を巡る活力。感覚は更に精度を増し、僅かにそよぐ木々の葉音すらも捉え始める。  ――そして敵を直視する。  岩漿(マグマ)を思わせる鈍い朱色(・・)の肌。常人では有り得ない全長と筋肉質の体躯。自ずと金剛力士像を連想するその形はしかし、額から伸びる二本の角が否定する。身体の一部が欠けた“異形”と象徴たる“角”――その姿は恐怖の具現。人間が生み出した人間の敵、“鬼”そのものの姿だった。  鬼を弾き飛ばす。赤い影の、回転しながら元の位置――三鬼 弥生の下へと後退するその様を見て、 「――勝てる」  確信した。間違いなく俺は、あの鬼よりも強い。  あの鬼が、今までの怪物共とは別の何かなのは分かる。要するに、俺はそれを恐れたんだ。人間は誰しも、新しい環境に適応していく力を持っている。そして人間は、まだ適応出来ていない未知なるものに恐怖する。  無知とはこの上ない恥である。ただ“知らないから”という理由だけで、こうも無用な誤認を犯す。知る機会がなかった、誰も教えてくれなかった、そんなものは言い訳にすらならない。全てを台無しにしてしまう過ちなんて、この世界には星の数程在るのだから。 「アカ(・・)に傷を付けたか。意外に頑張ってくれるじゃないか。うん、昨日よりは確実に強いよ。実戦の経験値というものかな。それはそれで興味深いものもあるんだが……」  鬼に対する恐怖は薄れた。だがそれ故に、そこに隠れていたものが、より明確に見えるようになる。  俺は鬼を退けた。その結果は、彼女にも、少なくとも俺が鬼に劣っていないことを知らしめたはずだ。だというのに、彼女は全く姿勢を崩さない。変わらない、余裕のある笑み。まるで俺など眼中にないような言動。危機感も焦りも微塵もない。例え俺が、彼女の喉元に刃を突き立てたとしても、きっと何も変わらない……、そんな風にすら思えてきてしまう。  虚勢だろうか? それとも、あの鬼を従えているという構造そのものが思い違いなのか? だがもしあの態度が虚勢でもなく、鬼を操っているのが彼女であるとしたら。あの鬼なんて比較にならない。彼女こそ、今ここで最も脅威と感じるべき存在なのではないだろうか。 「おい、あんた」  声を投げ掛ける。彼女は、今初めて俺に気が付いたかのように「ああ」と零した。 「あんた、何なんだよ。なんで、俺を殺すなんて言うんだ。その鬼みたいなのはあんたのなのか?」 「私が何者で、君を殺す理由が何で、アカが私のモノかどうか、と? 沢山質問してくれたところ悪いんだが、どれも君が知る必要のないことだよ。というか、私が誰かは知っているんじゃないのか、君は」 「ああ。俺と同じ学校に来た転校生で、一つ上の先輩だろ? だからさ、その人がなんで、そんな意味分かんない化け物と一緒にいて、しかも襲っ――」 「化け物!」  俺の言葉を遮り、これはいい、と彼女は心底可笑しそうに笑い出した。啜り泣きに似たその声が、誘惑の甘い言葉のように、聴覚にまとわりついて離れない。  思わず息を呑む。――信じられない。普通に話しているだけの筈なのに、なんでこんなに冷や汗が出るんだ。 「いや失礼。そうか、そうだね。君からすれば、アカと擬獣の区別なんて付けようがないだろうからね。ん、となると私は何だ? 化け物を従える悪の頭か? とんだ笑い話だ。ああ、これはもう、B級ホラーなんて持ち出すのすら気が引けてくる」  余程その表現が気に入ったのか、彼女は先程までよりも数段上機嫌に話し始める。その姿に俺は、気力のほとんどを奪われたようだった。 「……なあ、もうやめてくれよ。その鬼じゃ俺は殺せない。さっきので分かっただろ? こんなの何の意味もない」 「言うじゃないか。いや、確かにさっきのは君の勝ちだよ。おめでとう、そして認めよう。私は君を過小評価していた。今のアカ(・・・・)には、君を打倒し得る力はない。だが、意味がないとは可笑しなことを言う。私のしていることを無意味だと断じる術が、君にあるのかな」 「少なくとも、俺には意味がない。あんたとやり合う意味なんてどこにもない」  終わらせたいと、切に願った。  俺が今まで戦ってきたのは、相手が危険だったからだ。放っておけば確実に被害が出る。そう直感したからこそ、その元凶を退治してきた。  でも彼女にはそれがない。三鬼 弥生は人間だ。社会に適応出来ている人間だ。あの鬼単体ではどうかは知らないが、彼女がいる限り、問題には至らないのではないだろうか。いや、或いは……。そうだ、さっきから感じていた。あの鬼は、今までの怪物とは何かが違うと。あの鬼から伝わる感覚は、今俺が握っている武器と、まるで同じじゃないか。 「……そう、そうだよ。俺達は同類だ」  俺は何も知らない。気が付いた時には、俺は特別な力を持っていて、変な怪物に遭遇するようになって、そして訳も分からず戦っていた。でもそれは、なにも俺だけとは限らない。俺以外にも、そういう特別な力を持った人間がいたとしても、何も不思議じゃない。 「だから」  こうは考えられないだろうか。彼女も俺と同じ境遇で、さっきの化け犬を探してここに現れた。そして、俺をその怪物と勘違いして襲ってきた。それが自然な流れだ。間違いない。そうだ、間違っていない。どこも間違ってなんていやしない。  だから、俺達は―― 「だから俺達は、戦うべきじゃない」  胸の奥、心の底から、祈るように言葉を紡ぐ。端から聞けばそれは、ただの恥ずかしい台詞でしかなかったけれど。一番の望みを口にすることが、他の誰かに笑われることであるならば。笑いたいだけ笑えばいい。貶せばいい。蔑めばいい。……構うものか。その瞬間、俺にあるのは、本当にその“望み”ただ一つなのだから。  しばしの沈黙。月がまた、その輝きを取り戻しつつある中で。  俺は初めて、彼女の笑みを見た気がした。                                         中  月並みな言い方をすれば、それは驚きの連続だった。  黒いがらんどうの部屋。床にしろ壁にしろ天井にしろ、まるで生活感のない四角い空間。それだけならまだ、昨日越してきたばかりという彼女の言葉から、別段不思議に思うことはないのだが。高さ十数メートルはあるだろう天井を含め、光源になりそうな物は何一つ置かれていないと言うのに、隅々まで見渡せる不可思議な現象。考えられる原因としたら、この黒いフローリング材のような面そのものが光を発しているのだろうか。こんな部屋――いや、広さからすれば広間とでも呼ぶべきなのか――、俺は今まで見たことがない。恐らくは、世界中を探し回っても此処だけでしか有り得ないだろう。  そうだ、何よりもこの広さである。この家は、外から見た分には随分と粗末なアパートだったはず。彼女自身の雰囲気とのギャップに親近感すら覚えた矢先、中身はコレと来た。一体どんな仕掛けがあるというのだろう。  そもそもにして、彼女の言動も普通ではない。こんな夜中に、どうして出会ったばかりの男を自分の家へ招くのだろう。健全な男子であれば、これをどう解釈すべきか心底悩むところだというのに。 「疲れたのかな? 悪いね、椅子の一つでも用意出来れば良かったのだけれど」 「え、……ああ、いや」  半ば放心状態にあったらしい心が、彼女の声に引き戻される。今は特に疲れている訳ではないのだが……いや、或いは頭が認識していないだけで、身体は疲れきっているのかも知れない。あれだけのことがあった後、この家に辿り着くまでも随分な距離を走った。どうにも記憶がはっきりしないが、どうやら東住宅街の外れから此処まで来ていたらしい。……はて、俺が最初にいたのは西側だった筈なのだが。 「なんか、凄いトコだよな、ここ。どうなってんだ?」  漸く口を開けたものの、何について聞いているのかが自分でも分からない。 「ふん、まあまともな家だとは言えないだろうね。でもその質問には答えかねる。なにせほら、少なくとも今は、君が知っても意味のないことだから」  黒い広間の奥、唯一置かれた家具であるソファに、彼女は腰掛けている。黒い壁、黒いソファ、おまけに制服は冬服の黒いブレザー。これだけ黒く揃った視界には、彼女の白い髪がより一層映え、その美しさが増して見える。 「えっと。三鬼、先輩」 「先輩は少しこそばゆいな。別の呼び方でお願い出来るかな」  こそばゆいだろうか。いや、二年生は一年間そう呼ばれなかった筈だから、俺達よりは慣れないのかも知れない。 「じゃあ、三鬼さん。三鬼さんって、血縁に外人とかいる?」 「ふん、外人なんて言い方をするのなら、誰にだっているだろうに。まあ君の考えているような血縁者はいないよ」 「ならそれ、その髪さ。もしかしてアルビノってやつなのか?」 「おや」  彼女の目が僅かに見開かれて、その黒く澄んだ瞳が目に入り、……って、黒? 「いや、違った。忘れてくれ。アルビノだったらそんなに目は黒くないよな」  カラーコンタクトという言葉も浮かびはしたが、よくよく見れば、肌の色だって病的な白さではない。色白ではあるが、充分に健康的な色である。唇は艶やかな桜色に染まり、黒く深い色の瞳には刺すような鋭さすら感じられる。外といい今といい、暗い場所でしか会わないから、こんなにしっかり目に出来たのはこれが初めてだったように思う。……それだけに、そのあまりもの美しさに、一瞬目が眩んだ。 「ああ、確かにアルビノ――先天的白皮症とは違うかな。先天的というのは違いない訳だが。しかし、よくそんな言葉を知っているね。医者志望だったりするのかな、君は」 「あ、……い、いや。多分、昔テレビで見たとかそういうのだと思うけど……」  何だこれ。誉められて嬉しいと思うなんていつ以来だろう。 「ふん。現状、この髪は、恐らくは遺伝的なものなのだろう、という見解に落ち着いている。不明なんだよ、実際の原因はね。アルビノのような既存の遺伝病とは個体差と呼べるレベル以上の範囲で異なる――そう、他は完全に健康体なのに、ただ白髪であるというだけの、この国においては実に特殊な病状だ。先天的な毛髪の色素欠乏……私の家系、それも女性にのみ現れるこの症状。男性にのみ、というのならば、劣性遺伝、つまりY染色体の遺伝情報に起因する変異なのだろうと判断されるのだが、それは初めから否定されている。ならばX染色体、優性遺伝なのかといえばそれも違う。現に私の上には、二人の兄が黒髪、それも健康体で産まれている。それ以外のケースにしても、女児のみが百パーセント発症する遺伝形式は存在しないとされている。  仮説なら幾つかある。そもそも現代における遺伝子学は未だ発展途上なのだから、そこに答えがあるのかも知れない。だが、私が信じる説は一つ。かつて、三鬼家の娘が白髪鬼に見初められたという、人知れず消えていった古い伝説だよ」 「…………」  楽しげに口の端を吊り上げるその姿に、思わず息を呑む。この独特な空間に物怖じすらしている俺の前で、この場に溶け込んだかのような自然さで言葉を紡いでいく彼女。内容なんて半分も頭に入ってこない。なのになんでこんなにも、彼女の言葉に集中できるのだろう。 「おっと、悪かったね。興が乗るとどうにも話しすぎてしまう。まったく困った悪癖だよ」  恥ずかしそうに笑いながら、彼女は詫びてきた。 「いや、聞いた俺も悪かったよ。そういうの、あんまり話したくないだろ」 「そうでもないよ。確かに、奇異の目で見られることもままあるさ。けれど、だからと言って私は――」  彼女はそこで口を噤み、やれやれと小さく首を振った。 「別に、俺は構わないぜ? 少し話を聞くぐらい」 「いい。君の知る必要のないことだ」  溜め息交じりにそういったかと思えば、 「さあ、本題に入ろうじゃないか」  彼女は、天使と形容するに相応しい微笑みで、俺を握り締めた。                                         後  何かが狂っていく。今までずっと常識という枠組みで生きてきた自分ですら、この状況がどれほど外れていることなのか、最早見当も付かない。  それは快楽を伴う麻痺だ。未知への期待、先の見えない緊張感。率直に自分の心境を表すならば、心の底から楽しんでいたのだ。そう感じている自分を良しとし、狂っていく自分を許容した。  人間は常に、自らの想い描く理想を目指して生きている。善悪なんて無価値な幻想に囚われず、どこまでも貪欲に追求し続ける。人間の本質。ありのままの心のカタチ。それを自覚したままに、真っ直ぐ前進(せいちょう)する瞬間こそが、人間が最も歓喜する瞬間。言い知れない満足感に酔いしれる一時であり、  ――それがあの時の、朏 千里馬の姿だった。 「酷いな。まるで眠れる気がしない」  気が付けば一人、込み上げる熱を抑え、そう呟いていた。  時刻は既に午前二時を回ろうとしている。自室の勉強机に突っ伏して、ついさっきまで身を置いていた異界にばかり想いを巡らせていた。  魔法や幽霊、その他の非科学的なモノ達。俺はそんなものを認めない。ソレを手にし、ソレらと対峙したこの一ヶ月を経ても尚、そこに変化なんて無かった。夢見心地――だったって訳じゃない。それは紛れもない現実だと認識していたけれど、だからといって今までの考えを曲げることはしなかった。曲げる程のことではないと、そう思ったからだ。  知識は独占するものではない。真実に近い知識は、より大きく広がり易いこそ探す価値がある。そう、知識は共有するものだ。誰かと共有して初めて意味を持つものだ。  だが、喩え正しい知識であっても、必ずしも認めて貰えるとは限らない。それを見聞きした人間が、俺と同じように“正しい”と認識出来なければ意味がない。  今日までに自分が体験したこと。異能を以て異形を制し、そして化け物を従えた少女との出会い。それを誰かに伝えたとして、果たしてそれらは受け入れて貰えるのだろうか。答えは決まっている。これを真実と伝えるには、この世界はあまりに場違いだ。ジャンルが違いすぎる。恋愛小説を心から愛する読書家には、どれほど優れたホラー小説にさえ、その真価を見出すことはできない。  だが。ならば何故俺は、こんなにも翻弄されてしまうのか。  価値のない知識。興味を示すに値しない真実。これまで無関心であり続けた現実。何故俺は、そんなものに今、心を動かされているのか。  ――分かりきってる。如何に堅牢な扉でも、鍵さえ有れば容易く開くのだ。  深く呼吸して気持ちを落ち着かせる。机の傍らに放られていた学校指定の手提げ鞄から、新品の大学ノートを取り出す。当然、授業用にするために購入し、鞄の中に入れてあった物なのだが、今やろうとしていることは学業とはかけ離れた事柄だ。普段の自分なら、勿体ないから、と踏みとどまるのだろうが。些末なことだと思える。なにせ、今日は思いも寄らない臨時収入があったから。  机の引き出しに常備してあったシャーペンを握り、真っ白なページに挑む。一瞬の躊躇いを覚えたものの、ペンは間もなく走り始めた。箇条書きで、短い文を連ねていく。今日のことに関わる情報、霧のようにモヤモヤと漂う疑問。頭の中に詰まったそれらを、なんとか整理したいと思ったのだ。  “擬獣(フォーベット)”  けものもどき、と書いて“フォーベット”と読むとのことだったが、漢字のまま“ぎじゅう”と呼ぶ一派もいるらしい。試しに国語辞書を引いてみたが、やはりそんな言葉はどこにも見当たらなかった。  言葉で説明される前に、それが何を指すかは分かっていた。およそこの世の生き物とはかけ離れた異形。時に巨大な身体を持ち、時に異なる身体を共有し、そして確実に、人間に害をなす存在。そんなモノが、なぜ公に知られていないのか……それは今までも感じていたことだったが、その答えは今日、なんとなくだが、分かった気がする。  “界装具(アルム)”  “アルム”、もしくは“かいそうぐ”。アルムというのは確か、どこかの言語で“力”を意味する言葉だったような気がする。これもまた、その正体は明白だ。敵である擬獣を狩る、恐らくは唯一の手段。常識にはない、不思議な力を持つ武装。  三鬼の口振りからすると、やはりあの赤い鬼――アカと呼ばれていたあの化け物――も界装具であるらしい。『装具』という名前からしてもそぐわない気がするが、この期に及んで、そんなことに拘っていても意味はないのだろう。  “機関、とは?”  ここまでは、今日になって知り得た新しい単語を連ねた。前の二つについては、まだ分からないこともない訳じゃないが、一応は納得出来ている。問題なのは最後、三鬼が“機関”と呼んでいたもののことだ。  直接の質問には答えて貰えなかったが、話の内容から察するに、表舞台には登場しない何かしらの組織なのだろう。他の二つとは違って抽象的、しかも和名しかないあたり、実はそう大きな組織ではないのでは、と、これ以上は推測しか出来ない。ただ、  “三鬼 弥生の目的は?”  彼女がこの町にやってきた目的は、これまでのことから連想すれば“界装具”で“擬獣”を倒すことだろう。だが、それは彼女が一人で行っているのではなく、その“機関”とやらに所属し、その命令でこの町に来た、……そう考えるのが妥当だろう。詰まり、機関とはそういう組織なのだろうと考えられる。  擬獣。実害は勿論、その姿そのものも恐ろしいモノ。この町だけにしか出ないのか、そうでないのなら、どれくらいの出現範囲があり、数がいるのか……それは分からないが。公になればそれは、少なからず住民を恐怖させるはず。いつ襲われるかも分からない獣に怯え、対応出来ない国に不満を覚え、行き場のない怒りが募る。どう転んでも良い結果など訪れるはずもなく、ならば極力秘密にしたいと考えるのが定石だ。そしてそれを実行する組織が必要となり、それが、三鬼の言う“機関”なのではないだろうか。  読まなくなって久しいが、こういうのを漫画のような話というのだろう。真っ当な常識を持った人間相手には、嘲笑でしか迎えられない、そんな下らない話。  だが今はそれが事実なんだ。誰に笑われようと、馬鹿にされようと、俺はそれを信じている。だってそうだ。この手の話を手放しに馬鹿にする連中だって、過去には、もしかしたら今でも心の底では、そういう展開(・・・・・・)を望んでいる筈じゃないか……。  欠伸を一つ。意気込んでノートを開いたはいいものの、急に眠気が表れ始めた。勉強体勢に入ったとでも脳が勘違いしたのか、まったく休みボケにも困ったものだ。予想よりも遙かに少ない文字数を見、なんかもうどうでもいいやとまで思い始めてくる。  だから、最後に一つ、一番大切なことを書き記す。  “これから自分がすべきこと”  勉強机に備え付けられている引き出しは四つ。一番上は鍵付きで、貴重品入れとしてなかなか重宝している。ついさっきそこに新入りがきた。白髪の美女から気軽に渡された諭吉二十人である。 『まあ、擬獣退治のお礼とでも考えて貰えればいい。それくらいあれば足りないことはないだろう?』  普通じゃないのは見るからに分かるんだが、なんだ、このご時世にそんなナリキンみたいな人がいたのかと本気で驚いたりした。どのみち、目的(・・)の為にはかなりの貯金が必要になるんだが、彼女のおかげで予定より随分のんびりとバイト探しに専念出来そうだ。  しかし実際、何者なんだろうあの人。とまあ、そういうのは本人に聞くものであって。気にはなるが、今はどうでもいいことだ。 『それから、いいかい? これからは私の指示があるまでソレは振るわないこと。詰まり、擬獣のことは全て私に任せること。君はね、敵を見る前に鏡を見るべきなんだよ。出掛け際には見るだろう、鏡。同じコトだよ』  意味深な言い回しが気になったが、どうやらその辺りは彼女の好みらしい。  確かに、彼女は専門家で俺は一般人、そういう立ち位置だ。危険だから放っておけないというのなら、もう危険なことはないのかも知れない。俺が戦う必要なんてないのかも知れない。 「……でも、ほら。邪魔にさえならなけりゃ、文句はないと思うんだ」  なににせよ。明日から、少しは楽しくなりそうだ。