朏 千里馬 -2-


 ふと、思った。高校生活の三年間というものは、果たしてどの程度重要なものなのだろうか。

 人間の寿命を百年として――いや、七十年程度としても、その内のたかが三年間。極端に言って、ついうっかり寝て過ごしてもいいんじゃないかと思うくらいに短い、本当に短い期間だ。けれど、人間は変わっていく。個人差はあるけれど、生まれて二十年まで成長し続け、そこからは徐々に老いていく。記念すべき誕生日を迎えるたび、死期に一歩一歩近づいていき、そして肉体も精神も変容していく。高校生活中盤の年から二十歳前半が人間の肉体の全盛期であり、精神的にも社会的にも自分の人生を決定する時期、だとするなら、少なくとも寝て過ごすことが有意義だとは思わない。

 結論、高校生活は大事だ。人生は長い。長い人生を如何に自分好みに過ごせるかが、このたった三年間に掛かっている。

 そして今日という日はその第一日目。これから起こるだろうあれやこれやに期待やら不安やらを感じながら、昔よりも確実に短くなった気がする一分一秒をじっくりと噛み締め、有意義に過ごしていくべき一日だ。

 ……だ、というのに。

「なあって千里馬。早く行こうぜ」

 緊張感など一切見受けられない、ユルユルの笑みを垂れ流す目の前のコイツは、一体何なのだろう。

「えー、今日二学年に来た転校生が、物凄い美形の女子で? グラビアアイドル顔負けのスタイルで? 色白で、おまけに髪まで真っ白だ、と?」

「そうだよ。あんなの普通じゃねぇよ。有り得ねぇっつーのよ。お前も見たいだろ? 見たいよな? うん見たい。よし見に行こう」

 肩を揺さぶられ、つられて頭もグラグラと揺れる。この野郎、小柄なくせに腕力だけはありやがる。

「慎太」

「おう――あッ」

「とりあえず黙れ」

「ぎゃん」

 手刀一発。位置的に慎太の頭部が殴りやすい為、手刀拳骨は最早癖になっているのだが、野球少年である慎太のイガグリ頭は、チクチクと地味に効くダメージを俺の手へも与えてきやがる。いっそ全部削ぎ落とせ。

「うは、なんか千里馬のチョップも久々だな。けど、その所為か? ちょっと鈍ってるな。前と比べて威力がやや――」

「そうか、入学早々保健室のお世話になりたいか。美人だといいよなぁ、保健の先生も」

「よし黙る。黙ります。黙りますから、ちょっと、起立しないで千里馬、いや千里馬様!」

 全く以て“黙る”の意味を理解していないようではあるが、話が進まないのでもう一度席に着く。大体、そんな無駄に元気でいるから、初対面の担任教師に学級委員長なんぞ任されるんだ。

「わかんないなぁ。お前、さっきまでメチャクチャ沈んでなかったか? 初日に委員長なんて雑用係を半年分も押し付けられたんじゃ無理もない、とか思ってたんだぞ、俺は」

「だからさ、そういうブルーな気分すら一瞬で消し飛ぶくらい、あの人は凄いんだって。お前も一回見れば絶対分かるから」

 結局、話が元に戻ってしまった。しかし、慎太の話にも気になるところがない訳ではなかった。どうせ担任が帰ってくるまでの残り数分はやることもないんだし、多少話を聞くくらいはいいかも知れない。

「髪が真っ白ってのは、なんだ、脱色したって意味か?」

 やはり、一番気になるのはそこだろう。色白の美人がいた、というだけなら兎も角、白髪の高校生なんて滅多にいるもんじゃない。無論、病気や事故なんかの不幸である可能性も充分ある訳だが、どうしてもそこに興味を惹かれてしまうのは、ある種仕方のないことだろう。

「いや、あれは染めたとか脱色したとかそういうのじゃない。だって、そういうのって普通、髪が見るからに痛んでたり、白っぽいけど白じゃない微妙な色だったりするだろ?」

「そうじゃないのか」

「違う! 違うんだなこれが!」

 段々とヒートアップしていくのが目に見えて分かる。何がコイツをそこまで駆り立てるのか、呆れすら通り越して感心してしまう。

「そういう人工モノに付き物の、汚さ、っていうのかな、それがないんだよ。俺がその人のこと知ってるのは、その人の隣のクラスにいる、俺のシニア時代の先輩に教えて貰ったからなんだけどさ。その先輩が上手いこと言ってたんだよ。そう、あの髪は、まるで生きてるみたいだ、ってさ」

「…………」

 活きている、ではなく“生きている”というニュアンス。だが実際生きているはずはない。意味としては当然、活きている、つまり質がいいとか艶があるとか、そういう捉え方が正しいはずだ。それを、ある程度の誇張があったとしても“生きている”ように感じた、なんて……。

「なあ、興味あるだろう? だから一緒に見に行こうぜ、千里馬」

 と、慎太は再びせっつく。見たいなら一人で見に行けばいいものを。欲しいのは共感か、同行者か、或いはそれ以外か。まあそれなりに付き合いのある奴だし、乗ってやらないこともないんだが。

 視覚と聴覚で危険を察知する。俺にも責任がない訳ではないので、警告くらいはしてやるべきだ。

「慎太。席に着け」

 場に相応しく、静かになりつつある教室の中。声を潜めて、しかし周囲には聞こえる程度の音量で注意してやったが、

「よし分かった、席に着いてやるからすぐに行って見てこよう!」

 よし、一ミクロンも分かってねぇ。このまま意地でも理解促進に繋げるか、それとももう我関せずで見捨てようかと本気で悩んだ矢先、

「あー、相河。相河慎太委員長」

 教壇――詰まりは俺から見て慎太の向こう側から、響きの良いテノールの声が飛んできた。数十秒程前に教室に戻ってきた担任教師である。呼ばれた当の本人は首をぐるりと回して後ろにいる教師を見、次いで惚けたような顔で辺りの様子を確認し、最後に俺の方を向き直した。

「じゃ、またあとで」

 クスクスとあちこちから笑われつつ、慎太は教室の隅にある自分の席に帰っていった。その途中、慎太が周囲に振りまいていた、多分彼なりの愛想笑いを浮かべていると思える顔は、ある意味で、このクラスの委員長に相応しいんじゃないかなぁ、などと思えた。

 またあとで、の言葉通り、高校の入学式があったその日の予定が全て終わったあと、慎太はまたしても俺の元へ、例の誘いをしにきたのだが。結局、その転校生とやらを見に行くことはなかった。時間がなかった訳ではないし、見に行こうかと思わないこともなかったのだが。なんと言うべきか、人間第一印象は大切にしたいものである。白い髪の転校生に過剰な興味を示したのは慎太だけではなく、もっと大人数、学年を問わず大勢の生徒がその話題を持ち出し、何やら痛々しい台詞を口走りつつ、異常な賑わいを見せていたのである。戦隊モノテレビ番組のごっこ遊びに精を出す小学生を見ているような、そんな心地にさせられてしまった。間違っても口にはしないが、正直、そんな連中と同類に見られるのは苦痛なのである。

 別に今日じゃなきゃ見られないという訳でもないのだから、俺はそんな連中を尻目に、さっさと帰路についたのだった。


 その夜。特別やらなければならないこともなく、今日新しく購入してきた教科書のページをなんとなくパラパラと捲っていると、既に馴染みのあるモノと化した感覚を察知した。


 例えるなら、後ろにいる誰かに肩を叩かれた時に近い。


 思わず振り向いても勿論誰もいない。……いる訳ない。ここは俺しかいない、俺だけの部屋だ。

 けれど、その感じがいつまでも続いていたとしたら。それが気のせいだと斬り捨てられるような類のモノじゃないのは明白だ。

 椅子から立ち上がると、日めくりカレンダーが目に留まる。真ん中やや上にデカデカと書かれた“6”の文字が、詰まりは今日の日付だ。

 こんなにも目立ちやすい場所にわざわざ掛けてあるというのに、ここ最近はこうやってじっくり見る機会などほとんどなかった。入学式の荷造りとかした日の“1”と、入学式前日の“5”の字は、確かに見た覚えもあるんだが。他は……やっぱり見てない。それでも毎日一枚ビリリと破く行動が習慣化されていた成果か、カレンダーとしての機能はしっかり保てている。偉いぞ俺。頑張ってるぞ俺。

「馬鹿みてー」

 一日一笑、健康第一。ただし、独り言が増えたのは困りものだ。明日からは一日のほとんどを自分以外の誰かと過ごすのだから、一層気を配らないといけない。

 そんなことを考えつつ、上着を羽織って部屋を出る。一瞬で切り替わる寒暖と明暗。昼間ならまだしも、夜――それも十一時を回る今みたいな時間帯だと、慣れ親しんだ感覚であってもつい驚いてしまう。四月になったとは言え、暖かくなるのはもう少し後か。

 先月――三月は八割方休日だった。入試自体は一月中に終わっていたし、それ以降も気楽なものだった。第一志望は正直ラインギリギリだったけど、落ちたら落ちたでまあいいや、くらいの心持ち。落ちたら電車通いしなきゃならなくてしんどそうだなー、ってくらいが精々だ。中学にも色んな奴がいて、終盤には見るからにピリピリしてる連中も結構いたが、三年になってからどれだけ頑張ったって、入る学校のランクが一つ上がるか下がるかくらいなんだから、気楽に構えてた方がどう考えても楽だったろうに。

 冷たい階段を下りていく。時間が時間だけに、外からの音はない。いつもならよく野良の犬猫がギャーギャー騒いでいたりするが、今日は静かなものだ。まあ、狩られそうな雰囲気を察して身を隠しているのかもだけど。

 しかし静かなのは外の話だ。階段の半ば、九十度折れ曲がる踊り場には、さっきから喧しい程の怒鳴り声が届いている。リビングへのドアが閉まっているお陰で俺の部屋まではほとんど聞こえてこなかったんだが、ここまでうるさいと近所迷惑は必至だろう。舌打ちを一つ。隣のおばちゃんに出会したら、また謝っておかないといけないだろう。

 仲介する気なんざさらさらなく、なにより巻き込まれるのがこの上なく面倒なので、口論現場を軽くスルーして玄関へ。乱雑に並ぶ、薄汚れた革靴とブランド物の赤いハイヒールを蹴り飛ばし――たくなる衝動を抑え、使い古したスニーカーを履く。端から見れば、気軽にコンビニにでも出掛けるような格好なんだろうが、実際のところそんな平和なもんじゃない。

 扉を開けて外へ出る。一層に冷たい風を肌に感じながら、右手で得物を握り締めた。