夏夜の鬼 第二章「朏 千里馬」 0  視界は暗転する。薄暗い月明かりの夜から完全な闇へ。溶解した地面は既に見る影もなく、幾ら藻掻こうと何一つ触れることも許されない。  外界への干渉を一切拒絶されたこの空間で、果たしてこの生に意味はあるのだろうか。……否、この身には既に、絶望という致死の毒が満ちている。  瞼の開閉に関わらず、視界に映るのは、一筋の光すら存在しない闇。だが、未だ活動を続ける脳の、その中枢には、夜空に映える艶やかな白が靡(なび)いている。  ――全ては三日前。三鬼(みき) 弥生(やよい)と出会った、あの夜に始まった。 第二章「朏 千里馬」 1  一見して犬である。  突き出た鼻、顔の上に立つ耳。垂れた尻尾に四足歩行。犬だろうか。犬だろう。それも闘犬だろう。もしかしたら狼とか、あるいは狐とか、ひょっとしたらそれら全部なのかも知れないけど、この際どれでもいいや。とりあえず攻撃手段は噛み付きと、あとは体当たりくらいだよね。  ぶっちゃけると俺はこの寒空の下、野良の犬ッコロ相手に本気で喧嘩を挑んでいる。……俺自身の名誉のために加えておくと、相手は可愛らしいワンちゃんなどでは決してない。昔の漫画だと、犬軍団が巨大熊をぶっ倒した、なんてことがあったりするんだけど、目の前のアレは多分、単体でやれると思う。  夜の暗闇に引き立てられる白毛、その巨体は目算で体高三メートル弱。普通の犬なら大型であっても一メートル前後が精々なのだから、これだけでも異常さが十分に分かるだろう。ちなみに、ヒグマだって全長三メートルもあれば十分に巨大の部類に入る。犬にせよ熊にせよこのでかさなら、どう贔屓目に見ても人間が太刀打ち出来る相手じゃない。俺素手で熊殺したことがあるんだぜー、なんてほざく輩がいるならば、今すぐ俺の隣に来るといい。そしてやれるもんならやってみろ。  今にも跳びかかってきそうな体勢で、鋭い牙を剥き出しに威嚇してくる巨大犬。ジリジリと詰め寄ってくる、その動きに合わせ、生い茂った雑草(オヒシバ)が音を立てて揺れる。雑草は俺の膝まで伸びており、鬱陶しいことこの上ないのだが、相手にとってはむしろ動きやすいのだろうか、何ら気にした風でもなく、絶えず俺を睨み続ける。  ある程度近づいたところで、犬は前進をやめた。  獣のくせに……いや、あるいは獣だからか、どうも勘はいいらしい。あと半歩でも近づいてきていたなら、その汚らしい鼻を斬り落としてやっていたのに。  先程にも増して、唸り声が強まり攻撃的になる。それでも双方動かない。このまま何の進展もなさそうに思えるが、そこは自制心が物を言う。所詮相手は野生の獣。自分より一回り以上も小さな人間相手に、いつまでもお預けが続く訳がない。  芯を揺さぶる雄叫び、次いで突進。如何に巨体であろうと、その俊敏さは確かに犬のもの。一瞬にして距離を詰め、その強靭な顎で以て人骨を砕きに掛かる。  その動作には一部の隙もない。獲物を狩る野生の本能は、ただひたすらに生を求めた結果である。殺すために戦う人間と生きるために戦う動物の決定的な違い。――即ち不可避の一撃。ただの人間ならばこの瞬間に……否、このケダモノと出会した時点で、命運は決していただろう。  勿論俺は、ただの人間ではない訳だが。  上体を固定したまま左方へ跳躍する。ただし敵は体躯の割に顔が細長く、避けるだけならほんの少し跳ぶだけで事足りる。直後、地面に落ちた左脚を軸に身体を四半回転、右脚をやや後方へ着地させる。遠心力で右脚に掛かる重圧に全身で抵抗する。そしてその重圧を押し破るイメージで、地面を思い切り、蹴り跳ばす。  目の前には伸びきった犬の首。振り上げた得物は、これを断つに絶好の位置取り。そして攻撃とは、拳でも蹴りでも剣撃であっても、身体全てを行使するものである。  右脚から生じた勢いを左脚で堰き止める。上半身にまで伝わるその勢いを腹、胸、肩、腕、手首、そして淀みなく刀身へと受け流す。あとは一切の躊躇い無く、振り下ろすだけ。  ガチリ(・・・)と地面が刃を弾く。肉を斬る手応えはあった――が、浅い。巨大犬は、首を切断するつもりで放ったこちらの攻撃を俺と似たような動作で回避し、間合いの外まで逃げていた。  またも唸りながら、今度は少しずつ後退していく。首筋の白い毛が赤く染まり、同じ色の雫が滴り落ちる。  可笑しいな、と首を傾げる余裕を見せてやる。手応えと血の量からして攻撃は頸動脈まで届いた筈なのに、それほどの出血が見られない。いやまあ、犬の生態なんざそもそも知らないし、それ以前にあれが普通の犬と同じ構造なのかも分からないし、もっと言えば血が出てきたことも奇跡なんじゃないかってくらいの話なんで、気にするだけ無駄かも知れない。  不意に、獣の唸り声に変化が生じる。声が裏返って高音になり、見た目からは信じられないくらいか弱い、悲痛な色が混じってくる。……どうも痛がってる感じだ。そのうち、立っていることも出来なくなったか、崩れ落ちて胴を地に着け、見苦しくのたうち回り始めた。 「おーいバカイヌー。それは降参ってコトでいいのかー」  当たり前だが返事はない。あっちは雑草と戯れるのに夢中のようだ。と言う訳で、勝手に肯定と受け取って、トドメを刺すことにしよう。  騙し討ち、なんて言葉も過ぎったが、擬態は出来ても演技は出来ないのが獣である。勝利の確信。中段の構えはそのままで、徐々に距離を詰めていく。間合いギリギリではなく、確実に息の根を止めることの出来る位置まで。  海で溺れているかのように、四本の足を必死でばたつかせる巨大犬。そんな動きでも巨体だけにダイナミックで、うっかり蹴られようものならこっちの脚なんて軽くへし折られるだろう。しかし酷い暴れ方だ。俺の付けた傷がそこまで苦しむ程のものとは思えないんだが……なんでもいい。今すぐ俺が楽にしてやる。  脚部の動きに注意を払いつつ、犬の首もとまで素早く歩み寄る。黒の刀身を月に翳し、迅速かつ的確に狙いを定める。  ふと、先程斬り付けた首筋の傷が目に付いた。 「…………」  喩えるなら、……何だろう。こう、ナイフで手首を切ったら、そこから虫が這いだしてきたというか……あ、全然喩えてねぇそのまんまだ。  ただし、這い出てこようとしているのは虫ではなく、毒々しい血の色をした蛇。いや大蛇。大人の腕くらい丸呑みに出来そうなのが一匹二匹三匹と、犬の傷口を押し広げつつ、品の悪い音と共に突き出る。グネグネと首を動かしているその様があまりに醜悪で、悪趣味で、珍妙で、つい一瞬、呆然と眺めてしまって、  ……目が合った。  格好なんざ気にする間もなく、全力で後方跳躍。蛇三匹は、犬の絶叫など物ともせず、一直線に追走してきてる。  蛇どもとの距離は目に見えて縮んできている。最大速でどっちが勝ってるのかは知らないが、万全の前進と咄嗟の後退じゃどう考えても分が悪い。大口開けて狙ってるのは俺の首か。犬(やどぬし)の仇討ちと言う訳ではないだろうけど、あの牙に噛まれたら倍返しどころの話じゃない。 「の、――ぉ!」  迷わず反撃に出る。無理矢理に身体を捻った、左方への薙ぎ払い。  ――だが失敗だ。切っ先が捉えたのは二匹まで。最後の大蛇は、もう鼻先まで迫ってきている。  もう一撃は、無理だ。さっきの反撃だけで三匹全部斬り落とさなきゃいけなかったんだ。反動で攻撃は出来ない。かといって腕で防御なんてしたら、あの蛇の大きさからして、右腕はまず使い物にならなくなる。いや、状況によってはそれだけじゃ済まないかも知れない。  つまり、もう、お終い。    ……ああ。  このまま。そうだ、このままだと俺は死ぬな。  死んだらどうなるかな。こんなに雑草生えてたら、誰も見つけてくれないよな。……いや、その前に野獣どもの餌になって消化されるか。  短い人生だった、とは思わない。十五年って普通に長いし。結構生きてるよね俺。まだやるべきことはあるだろうけど、まあここで終わるのもいいよね。  …………うん、いや。勿論冗談だ。というか、 「いいワケないだろ――!」  半身が燃えさかる。右腕が灼けるように熱い。片手で握る得物から、芯を揺るがす拍動が伝う。  それは活力だ。初撃で左に流れたはずの力、それが伸びきった先で爆発したかのように反転し、再度の薙ぎ払いを可能にした。  三匹目の蛇の頭が飛ぶ。そして嘘のように長かった跳躍も終わり、着地する。静止しきれず足が地を噛む。意図せず雑草を踏み倒し、綺麗な二本道が出来上がった。  体勢を立て直す。身体はまだ止まらないが、意に介す必要はない。再び構え、目線を押し上げる。そして捉えるのは、俺の隙をついて襲来する、約三メートルの巨大な影。 「は――」  思わず漏れる嘲笑。視覚情報を頭が認識する前に大きく振りかぶって、一振り。その影が俺を通り過ぎ、視界から消え失せる。 「犬のくせに」  影に追従するように、前方から強風が吹き荒ぶ。その風にとられ、生えていた雑草が見る見るうちに引き抜かれていく。鬱陶しく舞い散る葉に促され、ゆっくりと後ろを振り向く。 「お前、トロいよな」  犬はいない。どこにもいない。きっともう、あの蛇どもの残骸もないのだろう。  溜め息を吐く。全身を駆けめぐっていた熱が一気に冷めていく。さっきまでの高揚感が信じられないくらいに。  次に襲ってきたのは、言いようのない虚脱感。正直、犬や蛇よかこっちの方が厄介だ。快感ってのはいつもこんな感じだけど、もうちょっと持続してくれたら有り難いのに。  まあ、仕方のない話だ。折角、雑草だらけの面白可笑しい場所にいたのに、……今になってよくよく見てみれば此処は、割と見飽きた、コンクリートだらけの街路だったんだから。