01. d'abord


 菓子屋やそれに類する店舗は、城下には三つ存在していた。それ自体は姫も知っていたようだが、場所を調べ上げたのはフェルディナン配下の若い騎士である。簡単な地図を片手に、二人はまず、城に最も近い新装の菓子屋へと足を運んだ。

 真新しい煉瓦造りの店の前に着いて、早くも姫の顔は綻んでいた。なんとも言えない甘い香りが漂っていたからだろう。

 店主にはフェルディナンから、事前に話を通してあった。その甲斐あって、円滑に奥の席まで通され、ほとんど待つことなく、出来立ての菓子が配膳されてきた。

「とてもなめらかなクリームですね。まあ、この入れ物も食べられるのですか? なんてお洒落なのでしょう。こんな風に膨らませるのは難しいのではないかしら。ええ、そうですよね、それは内緒ですよね。その創意工夫をとても素晴らしく思います。いいでしょう、これは毎週の月の日に二十個、必ず城に届けてください。材料の手配と対価については追って使者を出します。それでは、よしなに」

 一つ目の菓子を、姫はこの上なく幸せそうに完食した。手の平に乗るほど小さなキャベツ型の卵生地を、姫はペロリと、舐め取るように平らげたのである。

 続いて、菓子も豊富に出せるという茶屋に入り。

「スプーンでつつくとフルフル揺れますのね、可愛らしいですわ。まるでゴルドスライムのような……あら、どうかして? フェルディナン。顔色が悪いですわ。まあいいでしょう。これは火の日に届けてくださいな」

 更に同じ店にて。店頭に並んだ菓子を大層気に入った風の姫に、店主が紹介した新作についても。

「冷たい、冷たいわ。暑い日にはぴったり。口の中で蕩けてしまうわ。このさくさくのウエハースと合わせた食感が癖になりそうです。こちらは水の日にお願いできますか」

 ならばならばと、店主が持ち出した試作品についても姫は喜んで咀嚼した。

「薄い皮の中に、甘くさらりとした餡が。まあ、ビビンを煮潰して作ったのですか? サラドに入っているビビンはこんなに甘くないわ。不思議なものですが、だからこそ惹かれるものがありますね。決めました、木の日はこちらに」

 なんと商魂逞しい店主であろうかと、呆れんばかりに感心するフェルディナンをよそに、姫は最後の店へと向かった。そこは、それまでは蜜菓子専門だったという老舗で、古い木造の建物だった。

「ええ、マロニエの実は私も大好き。それがケーキになるだなんて、夢のようだわ……。こちらの名前はなんというのでしょう。――『白色山』? そう……ううん、いいわ。味はとても気に入りましたもの。金の日に、城までお願いしますね」

 そうして、長かった砂糖菓子行脚がようやく終わったのだった。

 満足げな姫と共に、フェルディナンは最後の店を後にする。結局フェルディナンは菓子には手を付けず、代わりに渋茶を都合十三杯も飲んでしまい、腹に波を感じていた。

 気が付けば日没を迎え、空も朱色から藍色に変わりつつあった。昼間は暑く、夜は冷えるこの地方の気温を考えれば、そろそろ姫を城まで連れ帰らなければならない。フェルディナンはそう判断し、姫にその旨を伝えた。

「そうですね。チョコレートなるお菓子も食べてみたかったのですが、売り切れでは仕方ありません、またの機会にしましょう」

「左様で。ところで姫様、砂糖を摂取し過ぎるとあまり歓迎しかねる事態を招くとの報告が入っております。具体的に申し上げますと料理長ドゥドゥ・ピックマンのようなことに」

「分かりました。今日から貴方は悪魔のフェルディナンと名乗りなさい」

「は、光栄でございます」

 フェルディナンは揺るがない。一国の王女相手であろうとも、一回り以上年下の女性に軽々と翻弄されては、騎士の、そして男の沽券に関わるのだ。彼にとってはもう意地である。

 その、傍から見れば巌のような在り方には、さしもの姫も根負けしたようで、それ以上言い返すことはしなかった。その横顔には夜闇の影が差していたが、陰気な気配はまったく浮かんでいなかった。

「気は紛れましたか? 姫」

 ええ、と姫は頷いた。それからしばらく空を見上げてから、

「分かりますか? やはり」

 一瞬だけ、苦笑するように。姫は困ったような笑みを浮かべていた。

「もちろんです。最近は見合いの席も増えてきていましたゆえ」

 頷いた姫が、すぐに穏やかな微笑みに戻ったのは、まだ人の目があったからだろう。完全な夜になれば、城下は暗闇に堕ちる。そうなる前に寝支度を整えようとする人々の、慌ただしい声が聞こえてくる。

「ふふ。酷いことを言うのね、フェルディナン。まるで私が、我慢して殿方とお話をしているようですわ。未来の旦那様になるかも知れない方々と」

「もしもそういったご自覚がおありならば、その殿方たちの背に向けて舌を出すのはおやめになった方がよろしいでしょう」

「……よく見ていらっしゃること」

 侮辱を意味する身振り言語にしては、それはそれは可愛らしい姿ではあったけれど。たまさかそれを目撃してしまったフェルディナンは思うのだ。この姫は、本当は、姫になど向いていないのだと。

「そんな貴方だから。黒鷺姫の理由にも気が付いたのでしょうか」

「それは」

 その話を、姫の方から振られるとは思いもよらず。いたずらっぽく笑う姫に見つめられながら、フェルディナンはひと呼吸置くことを余儀なくされた。

「それは買い被りです、姫。気が付いたと言える程の理解はございません。それに恐らくは、城の者も何名か、察するくらいはしているはずです。特に王は、だからこそあのような命令を下していたのでしょう」

 王女の願いを叶えよ。その命令の真意を、王は語らなかったが。それでも、フェルディナンには痛いほどに伝わっていた。

 姫はまさしく理想の姫である。その笑顔は人を癒やし、その声は人を愉しませる。王族としての礼節、女性としての美しさと奥ゆかしさ、そして芸術を解す感性を併せ持つ。更には、古今東西あらゆる知識を収集した博学家でもある。一見すれば、完璧な王女として、生まれるべくして生まれた存在のように見えただろう。

 だが、違うのだ。それは間違った認識であると、フェルディナンはよく知っている。

 その実、姫はとてもわがままであった。好き嫌いが激しく、移り気でもある。すぐに熱くなり、冷静さは瓦礫のように崩れてしまう。豪奢なドレスで着飾って、歌やダンスを嗜むよりも、武勇を謳う英雄の冒険譚に胸踊らせる、少年のような幼少期も過ごしていた。多くの者が抱く姫君のイメージは、現実とは天と地ほどの乖離があった。

 それを知っているからこそ、フェルディナンは思うのだ――姫は、無理をしていると。

 およそ王女などという肩書にはそぐわない嗜好を持ちながら、非の打ち所がないほどにその役目を全うしてしまえる、その様に。その熱量、その意気、その才覚は、やはりか弱き姫君などでは、絶対に持ち得ないものなのだ。

「以前の呼び名は、かの超石仙人から賜ったものでしたが。お気に召しませんでしたか」

「当然です。何が仙人、何が『白鳩姫』。見た目の配色と、古く母神の御使いだったなどという御伽話をこじつけた、悪い冗談でしかありません。民たちは、その白き羽毛はまさに姫様の清廉さそのものだと、喜んでくれはしましたが」

 だから、つまり。姫は嫌ったのだ。何者かに与えられた自分を演じることを。

 故に、自ら名乗ったのだ。黒鷺の姫という名を。

「ペルルガネットも、ベリーのケーキも、白鳩の姫も。皆が喜ぶから、私は受け取ったのです。皆が望んだから、私はそれらを選んだのです。『姫君はかくあるべし』という物言わぬ重しを――だから私は唐突に、脱ぎ捨ててしまいたくなったのです」

 空高く、飛び立つために。

 その呼び名が、どのみち鳥であるのなら。自由に空を駆けたくなるのが、生き物というものだろう。

「だからこそ生じた、つまり反発でございましょうか。黒き鳥、黒鷺の姫は」

「本当の私は、清楚な姫などとは程遠いのだから。ぴったりだとは思いませんか、フェルディナン」

 意地悪く笑う黒鷺姫からは、まだ子どものような無邪気さと、年相応の成人した女性の妖艶さが混じって見えた。それだけでも、今日、わざわざ危険を冒してまで、城下を巡ったかいがあったというものだと。フェルディナンは少しだけ、誇らしげな気分になった。

「さて。私はその鳥を、遠見の鏡越しにすら見たことがありませぬゆえ」

「そう。でしたら覚えておくと良いでしょう。黒鷺という鳥には、白い羽を持つものもいるのですよ」

「なんと」

「不思議よね。きっと嘘つきなのだわ、白い黒鷺というものは」

 私のように。

 そう自虐的に呟く姫を、それでもフェルディナンは喜んだ。それでいい、人はそうでなくてはならないと。甘味を堪能した姫に負けず劣らず、フェルディナンは満ち足りた気持ちを抱いていた。

「さあ、城へお戻りください、姫様」

 これにて、今日の大仕事は終わりを告げる。姫と、そして当然ながら、城のすべての者が危惧していた姫の身の安全も揺るぐことなく、一日は過ぎようとしている。あと少し、あと少しだと、――フェルディナンが気を引き締めた、そのとき。

「――――」

 フェルディナンの視界の端を、何者かが通り抜けた。版図を広げつつある闇に紛れるように、黒い外套を身に纏った人影が、今しがた出てきた菓子屋の脇道に入って行ったのだった。

「忠義の騎士フェルディナン」

「は」

 姫の、先程の談笑中とは打って変わって、冷ややかに潜められた声が流れた。

「私の命を覚えていますか?」

「…………」

 無論であったが、しかし、今この場に限って。フェルディナンは答えあぐねた。

「ならば今一度命じましょう、私のフェルディナン。騎士たる己が職務に忠実であれ。私の供である今日この日にあろうとも、この城下の平穏を守れと。平和を乱す万難を決して見逃すなと。いまこそその命、果たす時ではないのですか、フェルディナン」

 それは。

 その命令は、フェルディナンにとっても当たり前のことだった。騎士の勤めとは、国を守ること。そして国とは民である。多くの民の住まうこの城下における不穏分子の排除は、フェルディナンの宿命でさえあった。

 だが、予感がした。フェルディナンには、姫がわざわざそのような命令を下した理由は分からなかったが、それでも。

「然らば、姫。別の者を護衛につけますゆえ、城にお戻りを」

「それは許しません、フェルディナン。私の護衛は、貴方が我が父より賜った最優先命令。それを放棄するなどもってのほかです」

 やはり、という思いで、フェルディナンは奥歯を噛み締めた。

 姫を守れ。

 騎士として忠実であれ。

 それはつまり、何が起こるか分からないこの先へ、姫と共に進み、あの影を追えということ。通常では絶対にあり得ない行動だが――いま、姫は間違いなく、それを望んでいる。

 数瞬、フェルディナンはためらった。

 艱難辛苦を乗り越えた歴戦の勇士たるフェルディナンが、かつて潜り抜けた七つの死線を想起するほどの混迷に足を掴まれていた。

 まさか、ここまで。

 当然のことであると、迷いなく頷いたその命令が。まさかここまでの苦悩を手繰り寄せるなど、フェルディナンは思い至らなかった。楽観していたのかと、責められたところで文句は言えまい。

 決して両立できないものではない。

 だが、万が一のことが、本当に起きてしまったら。

 フェルディナンの脳裏で、最悪の結末と言える未来が幾つも明滅した。

 己の身はいい。命を落とすことは怖くはない。どんな罰も甘んじて受け入れよう。――しかし。

 しかし、姫を。

 この国の宝である姫を、もしも失うことになったとしたら。

 それは一体、この命を幾度、致死の激痛と共に失うことで、償えるものなのだろうか――

「何をしているのです。見失います、早く追いなさい!」

「――は」

 迷いを払えぬまま、フェルディナンは夕刻の町を走る。後ろに続く姫の気配から、片時も意識を逸らさぬまま、重い鎧を軋ませる。

 どうか、取り越し苦労であってくれと。

 何事もなく終わってくれと。

 騎士フェルディナンの切なる願いは、空を越え、遠く主神のおわす天界へと届き――

「何をしているのですか、貴方は」

 そして、踏みにじられる。

「貴方は、何者ですか」

 フェルディナンが出そうとする言葉の、悉くを遮って。

 あろうことか、姫自身が、フェルディナンより先にその者に近付き、問い質していた。

 戸惑ったように姫の様子を窺うその者は、全身を黒ずくめのローブで包んでいた。継ぎ接ぎだらけの、質素な布地だ。先日までこの街の地下水路を根城としていた魔術結社のような、おどろおどろしい気配もない。ただ、そのローブがあるために、目の前にいる人物の人相も、性別さえも、フェルディナンには判らない。辛うじて分かるのは、長身のフェルディナンよりも背は低く、姫より若干高い程度の、中肉中背といった体格と思われることと。

 そして、もう一つ。

 その者が手にしているトーチが、闇を照らすための灯火にはとても見えないほど、赤く燃え盛っていることだけだった。

「ひめ、いや、お待ちくだ――」

「まさか、この店に火を放とうと?」

「いけませ――」

「貴方は周囲を警戒してください、フェルディナン。一人とは限りません」

 それはそうだが、しかし。

 フェルディナンは今度こそ混乱していた。天地が逆転したかのような心地で、どうやって姫を止めようかと、そればかりを考えていた。

 相手の意図がどうあれ、或いは何らかの誤解であれ。そのように迫っては、相手を悪戯に追い詰めるだけだと、聡明な姫ならば分かるはずなのに。

「ともあれ、詰所まで連行しましょう。詳しくはそこで、警邏の者たちが聞き取りを行って――」

 フェルディナンが剣を抜く。

 それは老練の騎士だからこそ為せる早業だった。

 黒い外套の者が、トーチを捨て、懐に手をやった、その瞬間のことだったのだから。

「きゃっ――」

 だが、反応したのはフェルディナンだけではなかった。

 突然走り寄ってきたその影に、驚くあまり。

 姫は飛び退いて、その勢いで、傍らにいたフェルディナンを突き飛ばしたのだ。

「ぐ――」

 互いに弾かれる。

 まさに鉄剣を振りかぶり、身体の重心を一瞬後ろに下げていたフェルディナンである。いかに姫の細身といえど、受け止めきることはできない。

 致命的な隙が、そこに生まれた。

「姫様――!」

 それでも、すぐさま体制を立て直したフェルディナンの目に映ったのは。

 白い喉元に銀のナイフを突きつけられ、動きを封じられた姫の姿だった。

 鋭利なナイフの刀身が、僅かな光を反射して、妖しく輝いている。フェルディナンには、それが玩具などではないことが、一目で理解できた。

 姫の顔が真っ青だった。当たり前だ、恐怖によるものに違いない。見開かれた赤い瞳が怯えたように、ナイフの方を向いていた。

 ナイフを握る手は、加齢による皺が目立った。フェルディナンのそれよりもずっと深い。

 顔を隠す外套の奥から、荒い息遣いが聞こえる。それは、平和的な話し合いが通じるようにはまったく思えないほどの、狂気が漏れ出る音のようだった。

 三者が膠着する。

 剣を振り下ろし、狼藉者の腕を落とすのが早いか。

 ナイフが、姫の首筋を裂くのが早いか。

 フェルディナンとその者の視線がぶつかり合い、重苦しい空気の中、永遠とも思える時間が流れた。


 だから、最初に。

 フェルディナンは、それを幻聴だと思った。


 この平和な城下に、戦場で聞き慣れた銃声が、一発、二発――響き渡り。

「――ひめ、さま」

 崩れ落ちた不審者へ向け、三度目の引き金を――黒鷺姫は、引いたのだった。