「02. ensuite」  黒鷺姫は見目麗しき、いと高貴なる令嬢である。  王家の証であるガーネットの瞳は情熱的な鋭さを持ちながら、温かな慈悲深さを内包している。  上等な陶器のごとく汚れ一つない肌は、やや色の黒くなりがちなこの地域の人々の中では、一際輝いて映える。  柔らかな微笑みを讃えて歩けば、老若男女を問わず、ありとあらゆる視線を集める。その眼差しはまさに神の御技とされ、腰痛、神経痛、便秘、夜泣き、狂心症に効用があると評判である。  背中を覆い隠す白い頭髪は、外来の最高級シルクさえも粗悪品に見えてしまうほど清らかで、芸術的であるとまで評価されている。月に一度、姫が髪を整える前後の日には、切り取った髪を譲ってくれ! いや売ってくれ! 言い値で買おう! などという嘆願書が城に溢れる始末である。  余談だが、その嘆願書の差出人の中に、しれっと現王の名前が紛れ込んでいたときには、姫の知らないところで大騒ぎになっていた。実父が侍女長に三日三晩説教を喰らったという事実は、とても姫には明かせないと、フェルディナンの胃はまた痛むのである。  そうだ、とフェルディナンは回顧する。  役職柄、フェルディナンの気苦労は非常に多い。それ自体、フェルディナンは仕方のないことだと思っているし、そこにやり甲斐さえ感じることもある。平均寿命などとうに過ぎ、肩を並べた戦友たちは一人残らず死に絶えた――それでもなお、人を殺して、殺して、殺し尽くした果てに、ようやく手に入れた平穏を、どうして疎ましく思えようか、と。  しかし。その悩みのほとんどは、国王を発端とするものだった。老王と呼ばれるほどの齢となってなお壮健な、かの御仁の戯れが原因であった。それは、つまり―― 「砂糖菓子が食べたかったのです」  街の中心部へ向かう途中で、黒鷺姫はフェルディナンの疑問に答えた。姫は、今でこそ町娘のようなゆったりとした格好をしているが、ただ真っ直ぐ歩くという挙動一つとっても品があり、身分を隠しきれているかは疑問である。  フェルディナンには、一歩先を行く姫の今の表情は窺えなかったが、想像は容易くついた。あまり人通りがないとは言え、ここは既に民の目がある土地である。最高の一瞬だけを切り出した虚像のごとく、慈愛に満ちた笑みを浮かべているに違いないと――より一層、その皺を深く刻む。 「なるほど。しかし、はて。砂糖菓子ならば、初めて砂糖が輸入されたその日から、茶会にてしばしばお食べになられているはずですが」  言いながら、フェルディナンは自身の記憶を漁る。  砂糖と言えば、南の海を越えた先の遠い国からしか手に入らない名品である。あまりに甘ったるいため、フェルディナンには珍味という印象しかないが、貴族の女子供にとっては既に、なくてはならない素材となっているそうだ。  それまでの甘味には、山間に生息する恐ろしい怪物『フランケン・ビー』の巣から手に入る蜜があった。手練の戦士が命からがら入手し、虫食みと呼ばれる職人が厳密に毒抜きするという工程を要するため、この国では最高級品扱いだったものだ。しかし、同じく高価ながらも安全で確実に手に入る砂糖の方が、貿易ルートの確立された今では主流となっている。  それに砂糖も今や、低品質のものならば庶民でも手が出るほどの値段にまで下がってきているという。贅沢品には違いないのだが、まだ普及されて間もないにも関わらず、城下では早々大衆化しつつあるらしかった。 「騎士フェルディナン。鎧の妖精を名乗るならば、若い女性の好みも把握しておかなくてはなりませんよ」 「お言葉ではありますが、姫。私はそのような名を名乗ったことはございません」 「そうですか。けれどその朝昼晩常時鎧スタイルでは、そのようなあだ名を付けられても詮無いというものです。つい先日、その名で貴方を揶揄していた子どもたちを見かけましたよ。ええもちろん、私は貴方の主として、きちんと嗜めておきました。そのような呼び名、あの殿方はきっと好ましく思わないだろうから、決して本人の前で口にしてはなりませんよ、というように」 「なるほど、それは感謝致します、姫。自分がそのような名で呼ばれていることなど、先程姫に目の前で告げられるまで、私は一切存じ上げておりませんでした。して、若い女性の嗜好についてというのは、どのようなお話でしょうか」  やはり終始変わらない調子のフェルディナンの言葉に、若干不満そうな溜息をついた黒鷺姫だったが、すぐ気を取り直したように続ける。 「城で出される砂糖菓子と言えば、ケーキです。それが宜しくないのです」 「と言いますと」 「お茶の時間に頂くケーキは確かに甘くて美味しいです。初めて口にしたその時から、今日までずっと大好きです。ですが、なぜいつも白いクリームで覆われているのです? なぜいつも赤いベリーが乗っているのです? なぜいつも白いレースペーパーに乗って出されるのです?」 「それは、それがケーキというものだからでは?」 「違います」  姫の言わんとしていることがまだ分からないというフェルディナンに、黒鷺姫は小さくも悲鳴のような声を上げた。 「私もずっと、そういうものだと思っていました。疑いもしませんでした。ですが、通いの侍女たちから聞いたのです、それはおかしいと」 「可笑しい?」 「それだけではないというのです。ケーキの種類も、そして砂糖菓子の種類も、城下にはもっともっと溢れているのだと」  そこでようやく、フェルディナンにも話が飲み込めた。つまり姫は、別のケーキ、別の砂糖菓子を所望しているのだ。確かに、姫が食べている砂糖菓子とは、フェルディナンの知る限り、姫が言った通りのベリーのケーキ一種類のみだった。フェルディナンに限らず、城内にいる多くの者も、ケーキとはあのようなものであると認識していることだろう。 「しかし、であれば姫。わざわざ御身自らが出向く必要はありますまい。別の物を食べたいのだと、一言我らに申し付けていただければ」 「私さえまだ知らない私の好みを、私以外の誰が理解できるというのです」  そう言われてしまっては、フェルディナンからは何も言い返せなかった。それどころか、姫がそのように自己主張をしている様を見て、感に入る思いさえあったほどだった。 「第一、よく確かめもせずに、迂闊なことは言えないのです。私の十二歳の生誕祭のことを覚えていますか? フェルディナン」 「覚えていますとも。晩餐会にて姫がお召になられていた、王国一の技師より贈られたペルルガネットの首飾り。白い宝珠に白銀のチェイン、散りばめられた赤の宝石の数々は見事の一言に尽き、姫様にとてもよくお似合いでございました」  それがいけないと言うのです、と姫は肩を落とした。 「あの首飾りは、前もって納められた数点の見本品の中から、私自身が選んで、作っていただいたものでした。あのデザインを気に入り、あの装飾を好きになって、だからお願いしたのです。ところが、ところがですよ」  黒鷺姫の声量が、だんだん小さくなっていった。それは恐らく、自制心の成せる技だと、フェルディナンには思えた。 「明くる日、私の部屋を占領する白、白、白、それから赤。それはそれはおびただしいペルルガネットの装飾品の山よ。私の部屋に雪でも降ったかのような、そこで刃傷沙汰でも起きたかのような、マーダーピエールの催す死の御伽話の世界に迷い込んだかのような、酷い酷い惨状が私を狂わせました。それからしばらく、瞼の裏にあの光景が焼き付いた私は不眠症になり、夜に一人でトイレに行くのも……」  こほん、と姫は、そこで可愛らしく咳払いをした。そして澄ました声で「失礼」と口ずさんだ。 「しかしながら姫。あれらは国中の者からの贈り物。貴方を慕う者たちが、貴方の好む品を捧げようという、心を込めた献上品なれば」 「限度というものを知らないのですか。どこの国に、私室を宝石のプールにされて喜ぶ王女がいるというのです。悪趣味にも程がありますわ」 「西のアッシャード王国には確かそのような姫君が」 「本当にいらっしゃるの?!」 「昨月滅んだようですが」 「私が姫で本当に良かったですねこの国は!」  ついに激情を抑えきれなくなった様子で、姫自身も拙いと思ったか、周囲をキョロキョロと見回し始めた。幸いに、他の誰の耳にも届いていなかったようだ。今歩いているこの辺りは、まだ人通りも少ない。姫とは事前に、人の少ない区域を通るよう示し合わせているからではあるが。 「とにかく。今回もまた、そのようなことになっては意味がないのです。迂闊に『これが好き、これが食べたい』などと漏らした日には、向こう数ヶ月の食事がそれ一種類に固定されかねません。それを避けるべく、今現在どのような菓子があるのかを私自身の(、、、、)目で確かめ、月の日はこれ、火の日はこれ、水の日はこれ――というように、店舗単位で個数まで、すべて私自身が(、、、、)決めてしまうのです。そうすれば、あの惨劇が再来することはないでしょう」  完璧な計画です、と、姫の慎ましやかな胸が張られる気配がした。  それを無視して、フェルディナンは思考する。  好きなことだから、誰にも任せられないのだと。姫がそんな風にこだわりを見せるのは初めてのことだ。それこそ、まだ王妃の細腕にすっぽりと収まっていた頃から姫を知っているフェルディナンだから、本当に初めてのことなのだろう。  それ故にフェルディナンは、胸に迫るものを感じずにはいられないのだ。  そしてあの姫が。あの王女が。このように自由であることが、本当に―― 「もしや、それが『黒鷺姫』の所以なのでしょうか?」 「え?」  フェルディナンからすればそれは、つい口を突いて出た言葉だった。言い終えてから、なぜそんなことを言ってしまったのかと、自分で驚いたほどだ。  だが、それ以上に驚いていた人物が、彼の目の前にはいた。  いつの間にか振り返っていた黒鷺姫が、その目を大きく開き、フェルディナンを見つめていた。 「失言でありました。無礼をお赦しください、姫様」  フェルディナンは跪いて、深く頭を垂れた。非常に目立つ行動ではあるが、それでも礼を欠くことだけは許されない。  あってはならないことだ。自らがそのように名乗る理由を、姫は誰にも、国王たる実父にさえ明かしてはいないのだ。それを、その秘された貴人の胸中を、一介の騎士に過ぎない男が詳らかにしようなどと、不敬どころか万死に値する。今この場で腰の剣を引き抜かれ、首を落とされたとしても文句は言えない。 「面を上げなさい、波濤の騎士フェルディナン」  言われるがままに、フェルディナンは主を仰ぎ見る。  そこにいたのは、王女であった。  かの大聖賢狼にさえ、およそ考え得る限り理想の姫君であると評された、まさしくその面貌で。 「赦しましょう、フェルディナン。私はその罪を問いません」 「は」 「けれど勤勉な貴方は、その身に相応しい罰を受けぬ限り、己を赦すことができないでしょう」 「は、左様にございます」 「ならば命じます。獅子面の騎士フェルディナン」  黒鷺姫は告げる、その裁定を。  フェルディナンは応える。主の御心のままに。  その裏にある意味など、騎士には未だ、知る由もない。