雑記_天才は努力をしない



■凡人の努力と天才の熱中

 天才はいるとかいないとか、努力は才能に勝てるだとか勝てないだとか、その手の論争を見ていると、心底不毛な争いだと思う。


 ゲームにルールが存在するように、議論にも前提条件というものが存在します。つまり、討論を行うため対立する以前に、参加者全員が理解していなければならない基軸、言葉の定義というものがあるということ。

 それが――恐らくこの件に限った話ではないのでしょうが――天才が才能がという言い合いにおいて、全くのお粗末な状態にあると、私は思うのです。不毛で当たり前。スリーアウトで攻防がチェンジするというルールがなければ野球の試合が成立しないのは、子どもでも、或いは予知能力者でなくとも分かる話です。それはどんな事柄にも当て嵌まると、そうは思いませんか?


 もちろん、スポーツのルールと違って、定義、認識というものに画一的な姿を求めたところで無駄なことです。それは各々違っていい。揃えられるものではない。ただ、自分の定義が通用しない相手がいること、互いの定義を知らなければ議論の余地が生まれないということを、私たちは知るべきなのです。

 日本人はディベートが苦手だから仕方がない、という背景はありますが。もし何か答えを見出そうとしてその論争をやっているなら、直ちに改める必要があるでしょう。


 だからここで、試しに私の定義を明記しておきます。


 まず、天才は存在する。もし存在しないと考えるならば、それは即ち、生き物に個性は存在しないという主張と同義。考えるまでもなく破綻している。

 では、天才とは何か。私はそれを『資質』と『才能』を高いレベルで併せ持っている人のことだと定義する。プラス、実績を残すことができれば、プロ、成功者の出来上がり。


 では『資質』とは何か。それは広義の個性。生まれ持っての向き不向き、生まれてから自分を形作ってくれた環境、諸々を指す言葉。

 では『才能』とは何か。それは好きであること。好きこそものの上手なれ。または、熱中できるということ。


 資質に関しては深く掘り下げる必要もないでしょう。恐らく、世間一般で才能と呼ばれる要素の多くが、私にとっては『資質』なのです。ただし先天的に限らず、後天的なものも含みます。本人にはどうしようもない諸々、と言えば大体伝わるでしょうか。ただ、だからこそ無視し得ない。資質は間違いなく、『才能』に関わってくるのですから。


 才能。そして熱中というもの。

 才能の対義語というと、努力と答える人が多いのではないでしょうか。しかし同時に否定してもいる。有名なのは『一パーセントの才能と九十九パーセントの努力』というやつです。

 その言葉いつも思うのですけど。一パーセントの才能なくして、九十九パーセントの努力なんてできると本気で思っているのでしょうかね。ええとこれ、誰の言葉でしたっけ?

 努力する天才、なんて言葉もあって、私からすればまったくピント外れな笑い話なのですが。まあそれだけ、色んな定義を持っている人がいるということなのでしょう。


 努力。努力とは何でしょうか? 毎日のトレーニング、毎日の勉強……などなど積み重ねていく研鑽すべて。だとして、普通の天才は研鑽をしていない? まさか。恐らく世の中の凡人が想像できないような研鑽を、毎日毎日飽きもせず、狂ったように続けていることでしょう。『アイツはろくに練習もしないくせに、成績だけは優秀な天才だ。俺の方がずっと頑張ってるっていうのに、なんてズルいんだろう』という批判がズレているのは疑いようがありません。まあ目に見える成績というものに関しては、たまたま、偶然、運の良さが絡んでくることも確かではありますが。それはそこまで大きなファクターではないでしょう。成績、結果を残せたということは、何かの原因があった、つまり何かの研鑽が実を結んだ成果であることは明白です。

 ただし。ただし、です。

 彼ら天才のやっている研鑽を『努力』だと認識するのは、我々凡人だけ。もし彼ら天才が『自分が成功できたのは、多大な努力をしてきたからだ』と言ったなら、私はこの言葉を、確信を持って贈るでしょう。


 それは錯覚だよ、無知で傲慢な天才くん。


 我々凡人にとって、努力とは何でしょうか。

 辛いものではないですか?

 やらなくていいなら避けて通りたいと思うものではありませんか?

 そんなことを一生続けなければならないというならば、成功なんかしなくてもいい。そう思ったことはありませんか?

 それは恥じることではありません。世の中の大多数の人間はそう考えているし、それは可能な限り生き長らえようという本能を持った生き物ならば、極めて当たり前の思考パターンです。嫌なこと、苦しいことが続けばストレスが溜まり、最悪体調を崩すこともある。ペットを飼うときだって必ず学ぶでしょう、ただのストレスで死に至る動物もいると。生き物は本来、努力なんかしたくないんですよ。痛いのも嫌なら、我慢するのも嫌。辛いこと、苦しいことなんかあっちいけポイ。なぜならそれが、健康に長生きするための法則であるから。もしもそれを否定する人がいたとしたら、それはマゾヒスト、自虐性癖のような何かを持った特異な人です。


 生き物は努力をしたくない。楽ができるならそれが一番いい。天才だって同じことです。努力は絶対に裏切らない!と豪語するアスリート、毎日尋常でないトレーニングを繰り返す彼らプロフェッショナルに、じゃあ試しにデスクワークを強制したら。さあ何年、何ヶ月、何週間、何日、何時間、いや何分保つでしょうね? 楽しくもないデスクワークをより高度にこなすための座学に身が入りますか? 筋トレやマラソンなんかと同等の集中力を発揮できる人が何人いる? まあ、一人いれば大したものですよ。

 彼らが言うところの努力、尋常ならざる研鑽は、その分野において才能があるから可能なんですよ。そしてそのとき、彼らはそれを苦しいなんて思っちゃいない。彼らだって、苦しければ集中できないのだから。楽しくなければ続けられないのだから。集中できているということは、辛くも苦しくも、避けられるなら避けたいなんてことも考えちゃいない。仮に辛いと感じても、それを覆い隠してあまりある『何か』を持っている。つまりそれは『努力』とは呼べない。そうではなく、彼らは『熱中』しているんですよ。


 熱中。熱中とは何でしょうか。

 分からない人はいないですよね。例えば『ゲームに熱中している』というのもよく聞く表現です。

 え? ゲーム、娯楽なんぞの繰り返しは研鑽とは呼べない。遊んでるだけだって?

 いやいや、ゲームに熱中できることを指しても私は『才能』と呼びますよ。古希向かえてるようなおじいちゃんおばあちゃんにテレビゲームを渡して、子どもと同じように熱中できます? 九割方できませんよね。孫と遊びたいがために挑戦や練習はするかも。でもそれって辛いですよね、苦しいですよね、そうそう楽しくはないですよね。つまりそれは、熱中じゃなくて努力なんですよね。

 結局ゲームに対する熱中だって、ゲームを一番楽しめる時期にゲームという娯楽が存在したとか、そういう過去環境が可能にするんですよ。典型的な資質と才能の構図。人格形成の際に『ゲームは楽しいものだ』という記憶を刻んで、それが後々まで残っているという『資質』。それを材料に熱中できる『才能』。私が言っているのは、つまりはそういうもののことです。

 天才は努力なんてしない。彼らだって辛いこと苦しいことなんか好き好んでにやったりしない。彼らがやっているのは熱中に過ぎない。

 子どもがゲームに熱中して、ご飯の時間も忘れて遊んでいるのと、天才が研鑽に熱中して、昼夜を問わず身体や脳みそを酷使しているのは、まったく同じ事なんですよ。


 天才は、自分たちがしているのは努力だと思い込んでいる。

 まあ、他人同士で互いの気持ちなんか分かるわけがない。価値観は随所で違ってくるだろうし、その確認を取ることさえ困難という有様。私とあの人の『努力』は違うものだ、しかし証明する術がない。それはどうしようもありません。だからせめて、そういう状態にあるのだと、全ての人が理解し受け入れていたのなら、齟齬や混乱はなかったはずなのですが。

 本当は熱中しているだけなのに。『私は熱中しているんですよ』→『つまりゲームで遊んでるのと同じですね?』と言われるのがなんか格好悪いから。納得いかないから。『私は努力しているんだ』→『すごーい!』って流れに持っていきたいだけ。周りの人間も、後者の方がその人は尊敬される、人気が出る、つまり実入りが良くなるから、意図的或いは慣例的無意識的に、努力しているということにしているだけ。

 或いは単なる履き違え。つまり天才はこう思う。努力(本当は熱中)なんて、言うほど大したことない。その気になれば幾らだってできる、だから私は成功した。こんなことができず口ばっかり達者な凡人って、ほんとしょーもないよね、だから上手くならないんだよ、とか。

 ……なんじゃないかな、と私は思いますよ。まあ、私は世の天才の側には属せないし、そういう仕事でもないし、そういう知己もいませんので、実際のところは知りませんが。彼らの言うところの『謙虚な思い遣りのある激励』は、私には『傲慢な上から目線の嘲笑』にしか聞こえない。


 好きになれば。熱中できれば。繰り返す回数は自ずと増え、集中力は質を高め、精神衛生上健全なまま、効率よく研鑽に励むことができる。今日はこんなことができるようになった、嬉しいな、明日の練習が楽しみだと、幸せな気分で毎日眠ることができるかも知れない。それだけでも、その人生は十二分に幸福です。プロとして成立させるためには、さらにそのための環境構築が必要になりますが、そういうのは大体資質――つまり本人の手の届かない場所に依存してくる。特に幼い頃に出会う、素晴らしい指導者というのは、大体親や身近な大人が巡り合わせてくれるものです。または偶然の産物か。ともあれ結局は、熱中できるということが、その分野で天才と呼ばれ成功するための条件であると、私はそう確信しています。


 天才の騙る努力に煽られた凡人は、苦しんで、嫌な思いをして、それでも『努力』を続けていく。それはそれで別にとめやしませんけど、どうしたって『熱中』できる天才には叶いませんよ。内心嫌々やってたって伸びません。感情として嫌なものを、理性や利害で好きにはなれません。やればやるほど、不安も不満も吹き出して、他人に嫉妬して他人を憎悪して……貴方の脳みそはなんとかして、貴方にその無駄な努力を止めさせようと、危機管理機能に従って健気に信号を送り続ける。怠ける理由を探し続ける。楽をしようよ、逃げちゃおうよ、そうしなきゃ私(あなた)の身体は保たないんだよ――。そして、そんなことを考えてしまう弱い自分に対する自己嫌悪とで、板挟みになる。最悪それが発端となり、うつ病とかが発症するかも知れませんね。ああ、そんなのさっさと止めた方が身のためだ。


 さて、私の話をしましょうか。


 私は常々、『私は好きなことを好きなだけやる』『小説も、絵も、ゴーストも、やりたいと思ったからやっている』なんて風に言ってきました。プロになりたい、成功したい、人気が欲しい、なんてことはどうでもいい。好きなことをやり続けよう。私だって、誰かが自分の好きなように作ったものが、一番面白いと感じるのだから。私もまた、好きなものを、好きな形にしていこうと。そう思ってものを作っています。

 それは嘘でも建前でもありません。好きなものを作る、文章を書いているとき、私は確かに熱中しています。書くことが楽しい、それこそ何時間だってやっていられる。苛々したり、悲しくなったりしたときも、文章を書いていれば忘れられる。気分転換ができる。ストレス発散になる。それはきっと、世の天才、プロだって似たようなものではないでしょうか。


 では、私はみんなに認められる天才なのか? プロにもなれるのか? ちょっとその気になって、例えば何かの賞にでも応募すれば、余裕で受賞できて、簡単に成功できるのか?

 できないでしょうね。それは誰より私が、一番よく分かっている。

 成功者の条件は、天才であること。天才である条件は、熱中できること。それは間違いない。

 でも、熱中できるからといって、天才と呼ばれ、成功者になれるとは、限らない。


 なぜなれないのか。理由は色々あるでしょうが、私に関しては一つ明確に、根本的な問題が存在します。

 私には、何よりも知識欲というものが、致命的なまでに欠けている。

 よき小説家はよき読書家でもあるといいます。プロの第一条件は多読であること。素晴らしいアウトプットを生み出すには、質も量も並ではないインプットが必要なのです。そのインプットが、スポーツ選手でいえば反復練習だったり、学者でいえば暗記学習だったりするのですが。私には、それがあまりになさすぎる。

 もちろん私も、好きな本を読んでいるときは熱中できますし、好きなだけ読んでいられます。でも、その好きの範囲が非常に狭い。そしてアウトプットのためとは言え、小説一本書き上げるのに、今まで手に取ることさえなかった小難しい参考文献を読破する気概が、私にはなかった。私の年間の読書量? 下手したら片手で数え足りますよ。一時期は、意識して色んな本を読もうとしたこともありましたが、面白くなくて積んでしまって、今はもう探してさえいません。ええ、あれはまさしく『苦行』でした。熱中などとはほど遠い。つまり、私にはその資質がなく、才能がなかったのだと、そう理解しました。

 もしも小説家になりたいのなら。執筆に熱中する才能はもちろんのこと、幅広いジャンルの読書に熱中できる才能も不可欠なのです。どちらか欠けていれば、プロとしてやっていくのは不可能です。運が良ければ、一発屋くらいにはなれるかも知れませんが。書店にある、あの膨大な数の書籍に埋もれるしか道はない。

 そんなものに意味はない。だから私は、辛いのを我慢してまで、プロを目指すなんてことはしない。


 は、努力しないことの言い訳に過ぎない?

 なんでしょうね。根性論が時代遅れになってから久しいと思うのですが、なぜ努力信仰だけは残り続けるのか。それも世の天才が、努力と熱中を履き違え続けている弊害なのかも知れません。

 人間は、ただ生きているだけで辛くて、苦しいのに。他人がどれほど苦しんでいるか、正確に知ることはとても難しいのに。熱中できる条件もまた資質によるものなのだと、これだけ言っているのに。結果が出ないのは努力が足りないからだと? あー実に羨ましいですねー。ちょっと私の人生と交換してみましょうよ、何日で音を上げるか楽しみで仕方がない!

 まあ、楽して何でも手に入れたいと思うのは間違いですが。苦労すれば何でも手に入る訳でもなし。まして、苦労すればたとえ結果が伴わなくても得られたものは尊いのだ、とか、何を言っているのかさっぱりまったく分からない。いい加減無責任に話を逸らすのをやめてこっちを見ろという。


 併せて読もう他人のブログ。

『なぜ「努力」は「信仰」となり人を苦しめ続けるのか 〜 差別・不平等・努力信仰 の関係 〜』


 はい、話が逸れていましたね。

 私は好きなことを好きなようにやっている。それは嘘ではないと書きましたし、その通りですが。

 でも、百パーセント本当ではないのです。


 私にも、ふと思ってしまうことがある。

 どうして私には才能がないの? こんなに頑張っているのに、なんで誰も見てくれないの? 褒めてくれないの? 私だって、好きなことをして、それだけで生きていけたら、それ以上の幸せはなかったのに。

 こんなの全然面白くない。なのにどうしてこんなのがプロなの? 人気作なんて言われるの? こいつら、たかが環境に恵まれて熱中できただけの連中が、さも自分は弛まぬ努力の末に大成した凄くて素晴らしい人間なんだとか、偉そうにしやがって。


 そんなこと、口にしたところで仕方ありませんが。思わずにはいられない、そういう時もあります。にんげんだもの。

 私は好きだからこれをやっているんだ。そう繰り返し、言い続け書き続けるのは、自分自身に対して言い聞かせているという側面も、大いに有り得るのでしょう。


 でなければ――

 大学の研究室で、『小説執筆が趣味と言う割に、君の文章は大したことないよね』なんていうクソ教授の一言で、死に掛けることなんてなかったはずなんだから。


 けれど。

 私は凡人で、人並みに苦しい思いをしてきたと自負していますが。じゃあ自他共に認める天才たちは、何の悩みもなく、苦しんでいないのかと言えば、否です。きっと。

 どうして自分ばっかり、と思ってしまうのは、今も昔も、余裕がなくなっている証拠なのかも知れません。


 それが分かっているから、だから時々虚しくなる。

 そして虚しくなったから、今こうして、こんな不毛なことを書いている。

 うわ、もう六千文字越えてるじゃないですか。一話投稿できますよこれだけで。勿体ないことを……。

 実に不本意。実に悔しい。こういうことは小説に載せて訴えるのが私のやり方なのに。実際、この話の一部や、ここから派生した話をどこかで登場させたこともありましたが。現状、どれも思ったほど話を広げることができていません。ストレスですよ。物語を、自分の思ったように組み立てられない。邪魔しているのは、他ならぬ自分自身の至らなさ。それがこんなにも、歯痒い。


 昨日今日の夜だけでここまで書き殴って、ようやく落ち着いてきました。早く夏夜の鬼の五章を書き上げたいし、ゲームシナリオのプロットも考えたい。

 それが、いま私がやりたいことだから。


 あとおお振りの期間限定無料放送も観たいし俺屍で最後の髪斬りに行きたい。